優しい隣人

大学進学で一人暮らしを始めた春、私は格安のアパートに引っ越した。
 2階建ての古びた建物で、壁が薄く、隣の部屋の音がよく聞こえるような場所だった。
 けれど、家賃が安いぶん、文句は言えなかった。

 引っ越してからしばらくして、隣の部屋の住人が話しかけてくれた。
 30代くらいの男性で、落ち着いた雰囲気のある人だった。
 「困ったことがあったら、いつでも声かけてね」と言ってくれたその笑顔は、とても優しそうだった。

 私が部屋で何かを落とす音がすると、「大丈夫?」と壁越しに声をかけてくれる。
 風邪をひいたときも、「薬あるよ」と差し入れしてくれた。
 最初は少し距離感が近いなと思ったが、親切な人なのだと受け入れるようになった。

 ある夜、私は大学の友人たちとオンライン通話をしていた。
 夜中まで盛り上がり、笑い声をあげていたら、壁をドンドンと叩かれた。
 慌てて謝ると、「こっちは静かに過ごしたいんだよ」と、隣の男性の声が返ってきた。

 私は申し訳なく思い、その日から音に気をつけるようになった。

 数日後、また隣人が声をかけてきた。

 「夜遅くまで通話してたでしょ? 誰かと住んでるの?」

 「いえ、一人暮らしです。ごめんなさい、うるさかったですよね……」

 「……そうか。あまりうるさいと、他の人も気にするかもしれないから、気をつけてね。」

 彼はそれだけ言って、自分の部屋に戻っていった。

 それから彼の声を聞くことが少なくなり、少し寂しいような気がしていた。
 ある日、偶然大家さんと廊下で会ったので、雑談ついでにこう聞いてみた。

 「隣の人、あまり最近見かけないんですけど、お仕事お忙しいんですかね?」

 大家さんは怪訝そうな顔をした。

 「え? 隣って空室のままだけど……」

 「え? でも、男性の方が住んでるはずですよ? 引っ越したばかりの頃からずっと……」

 大家さんは首を振った。

 「隣は半年以上前から誰も入ってないよ。騒音トラブルで前の人が出ていって、その後はずっと空き部屋。鍵も預かったままだし……」

 私は言葉を失った。

 今まで私に声をかけてきたあの隣人は、一体──誰だったのだろう?


解説

隣人として接していた“優しい男性”は実在していない存在だった。
つまり、隣の部屋はずっと空室で、誰も住んでいない。

・落とし物への反応
・風邪のときの薬の差し入れ
・壁越しの会話
・深夜の通話への怒り
・“他の人”という言い回し
すべてが、実体のない何かによる干渉だった。

また、「あまりうるさいと、他の人も気にするかもしれない」という言葉から、
彼の部屋だけでなく、アパート全体が“何か”に見られている可能性も暗示されている。

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