そのアパートに引っ越してきたのは、去年の春だった。
築年数は古かったが、家賃が破格で駅からも近い。
多少の古さは目をつぶっても十分な条件だった。
部屋は2階建てアパートの2階、端の角部屋。
見取り図を見ると、隣の部屋とは一部の壁でしか接しておらず、比較的静かだろうと思っていた。
だが、引っ越してすぐ、奇妙なことに気づいた。
夜になると、「かすれた声」が聞こえてくる。
はじめは隣人のテレビかと思ったが、耳を澄ますと、どうやらテレビの音ではなかった。
何かを――囁いている。
「……こっち……こっちだよ……」
そんな風に聞こえるのだ。
気のせいだと思おうとしたが、それは毎晩続いた。
特に夜中の3時ごろが酷く、目が覚めるとその声が聞こえてくる。
「……ここにいるよ……見て……」
耳元ではなく、部屋のどこかから声がする。
特に、押し入れの奥の壁の隙間から聞こえるように感じられた。
押し入れの裏は、空き部屋のはずだ。
管理会社に確認すると「しばらく誰も入っていない」とのことだった。
声が聞こえる隙間に手を当てると、ひんやりとしていた。
まるで誰かが向こう側から息を吹きかけているようだった。
ある夜、とうとう声が大きくなった。
「ねえ、開けてよ。ここから出られないの」
眠れずにいた私は、酒を飲んで少し気を紛らわせ、懐中電灯を持って押し入れの中へ入った。
奥の壁を触ると、意外にもその壁は板でできており、簡単に取り外せそうだった。
ドライバーを使って板を外すと、奥に暗い空間が現れた。
それは部屋と部屋の間の隙間――通常の設計ではありえない、細長い“空洞”だった。
その奥に、人のような影がいた。
「見つけてくれてありがとう……」
声が、確かに聞こえた。
恐怖で固まっていると、影がゆっくりと近づいてきた。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
我に返って玄関に走ると、そこには警察官が立っていた。
「すみません、この部屋の住人の方ですね? 少しお話を……」
数日前、このアパートの元住人の女性が失踪し、行方が分からなくなっているという。
その女性が最後にいたのが、この部屋だった。
「もしかすると、何か異変などは……」と聞かれ、私は押し入れの方を振り返った。
だが――さっきまで開いていたはずの板は、元通りに戻っていた。
警察には何も話せなかった。
その後も、「隙間の声」は続いている。
ただし、最近になって変化があった。
「次は……あなたの番だよ……」
そう囁かれるようになった。
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