大学時代の春休み、友人3人と一緒に、郊外の古い旅館へ泊まりに行ったことがある。
温泉付きで格安ということで選んだのだが、現地に着いたとき、私は少しだけ後悔した。
旅館は山の中腹にあり、かなり年季が入っていた。
建物の外壁はくすんでひび割れており、玄関には風に揺れる蜘蛛の巣。
いかにも「出そう」な雰囲気だった。
受付には無愛想な老婆がひとり。
愛想笑いすらなく、「2階の一番奥ね」と鍵を手渡されただけだった。
通された部屋は和室で、床の間に掛け軸と壺がある、昔ながらの造りだった。
ただ一つ気になったのが、部屋の隅にある手すりだった。
畳の上に木製の手すりが、L字型に固定されていたのだ。
ちょうど、和室の隅っこで一段だけ畳が沈んだようになっており、そこに合わせて設置されたようだった。
「何これ、変な場所に手すり?」
友人の一人がそう言って笑ったが、なんとなく気味が悪く、私たちはその部分を避けて荷物を置いた。
夜になり、みんなで風呂に入り、酒を飲みながらくだらない話で盛り上がっていた。
そのうち一人が言い出した。
「なあ、あの手すりのとこ……誰か座ってなかった?」
全員、静まり返った。
「さっき、寝転んでたら見えたんだよ。白い服着た女みたいなのが、しゃがんでて……」
「やめろって」
他の誰もそれを見てはいなかったが、妙な空気が漂ったのは事実だった。
深夜2時を過ぎた頃、私たちは順番に布団に入り始めた。
私は手すりから一番遠い位置に布団を敷いて寝た。
だが、明け方近く、ふと目が覚めた。
耳元で、「カリ……カリ……」と何かを引っかく音がしていたのだ。
最初はネズミかと思った。
でもその音は、畳の上を爪でなぞるような音だった。
私は体を動かさず、そっと目だけを動かして音の方向を見た。
手すりのすぐそばで、白い何かがしゃがんでいた。
人のような、女のような、ただの影のような。
そいつは、まるで何かを掘るように、畳を指でなぞり続けていた。
声を出そうにも、出せなかった。
体も動かない。
ただ、心臓の音だけが異様に響いていた。
いつの間にか眠ってしまったのか、気がついたときには朝になっていた。
慌てて昨夜のことを友人たちに話したが、誰も覚えていないと言った。
ただ一人、手すりの近くで寝ていた友人がこんなことを言った。
「夢でさ、女が“ここから出して”って……ずっと言ってた」
私たちは気味が悪くなり、朝食も食べずに旅館を出た。
チェックアウトの際、私は老婆に聞いてみた。
「あの手すり、なんであんなとこにあるんですか?」
老婆は一瞬、目を伏せたあと、小さな声でこう言った。
「……あそこだけ、床が抜けてたんですよ。昔、客が一人、落ちたまま見つからなくてね」
「え……?」
「誰かが中にいるって言うんだけど、誰も信じなくて。
だから、塞いで、手すりをつけたんです。近づかないようにって」
私たちは、一言も返せなかった。
今でも思い出す。
あの夜、白い影がしゃがんでいたあの場所は──
床が“抜けていた”場所。
そしてあの掘るような動きは──
今も、誰かが助けを求めていた動きだったのかもしれない。
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