大学時代の友人、渡辺が住んでいたマンションには、少し奇妙な噂があった。
彼が借りていたのは10階建ての最上階、角部屋。
ベランダの向こうには隣の建物もなく、風景を遮るものがない開放的な部屋だった。
「景色がいいから気に入ってるんだよ」と彼は言っていたが、あるとき様子がおかしくなった。
ある夜、ひとりで部屋でゲームをしていたときのこと。
ふと視線を感じて振り向くと、ベランダの外に何かが立っていたという。
「人影だった。でも、10階のベランダに人が立てるはずがない。外には足場も壁も何もないんだ」
彼はそう語った。
そのときは慌ててカーテンを閉め、鍵を確認し、部屋の明かりも消して布団に潜り込んだそうだ。
その夜は何も起きずに朝を迎えた。
だが、それからだった。
毎晩、ベランダのガラス戸に手形がつくようになった。
最初は1つ。
次の日は2つ。
その翌日は4つ──と、まるで倍々に増えていくかのように。
「拭いても翌朝にはまたついてる。中からじゃない。全部、外側にあるんだ」
彼は怯えた顔でそう言っていた。
試しにその夜、僕が一緒に泊まって確認することになった。
夜中2時、確かに何も聞こえない静寂のなか、渡辺が指をさした。
「見ろよ……」
ガラス戸の外、うっすらと曇った表面に、新しい手形がひとつ、ふたつと浮かび上がっていた。
人の手だ。大人とも子どもともつかない、ただ異様に長い指が印象的だった。
怖くなり、それ以降、渡辺は引っ越しを決意。
内見に行ったその日の帰り、「ようやく出られる」と笑っていたが、その笑顔もどこか引きつっていた。
そして引っ越し前夜、彼は記念にと、部屋の全体をスマホで動画撮影した。
だが翌日、僕の元に送られてきたその動画を見て、背筋が凍った。
最後にカメラが窓を映したとき──
そこには、無数の手が窓一面に張り付いていた。
白くぼやけた指先の間から、いくつもの目が、こちらを覗いているように見えた。
渡辺はその夜、引っ越し先に行く予定だったが、なぜか現れなかった。
連絡もつかないまま、数日が過ぎた。
後日、管理会社が最上階の部屋に確認に入ったが、部屋には誰もおらず、
ただガラス戸一面に、異常な数の手形が残っていたという。
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