私は都内の古いアパートで一人暮らしをしている。
築年数は古いが、駅から近く家賃も手頃だったので、入居を決めた。
ただひとつ、少し気になっていたのが、隣室がずっと空き部屋のままだということだった。
大家に聞いたところ、「前の住人が急に出て行ってね」とだけ言われた。
詳細を尋ねると、濁された。
まぁ別に関係ないか──そう思って生活を始めて1ヶ月ほど経った頃のことだ。
夜中の2時過ぎ、私はベッドでうとうとしていた。
すると、隣の部屋から「ドンッ……ドンッ……」と、誰かが壁を叩くような音が聞こえた。
最初は夢かと思った。
だが、数秒おきに続くその音は、確かに現実だった。
壁を挟んだすぐ隣。
空き部屋のはずなのに。
私は起き上がり、耳を澄ませた。
すると次に、「ミシッ……ミシッ……」と床を踏むような音が始まった。
まるで、誰かが部屋の中をゆっくり歩いているような足音。
だが、それは「隣の部屋」ではなく、私の部屋の天井から聞こえてきた。
私は鳥肌が立った。
このアパートに、上の階はない。
私の部屋が最上階なのだ。
慌てて部屋の電気を点けたが、部屋には誰もいない。
次の日、大家に聞いてみた。
「昨晩、誰か上の階に来てましたか?変な音が……」
だが、大家は首をかしげた。
「この建物、上の階はないですよ。全部で2階建てだし、お宅は最上階の角部屋ですよ」
ますます不安になった私は、数日間、夜になるとテレビをつけっぱなしにして寝るようになった。
だが、音はそれでも止まなかった。
ある夜、ついに決定的な出来事が起きた。
またあの時間──午前2時。
部屋の天井から、「ドン……ドン……ドン……」と、まるで何かが落ちてくるような音が響いた。
怖くなった私は布団をかぶってじっとしていた。
すると突然、「カリ……カリ……」と、玄関のドアを爪で引っかくような音が始まった。
息をひそめていると、今度は「トン……トン……」と、ドアをノックする音に変わった。
私は携帯を握りしめ、110番しようかと迷っていた。
……だがその時、不意に音が止んだ。
静寂の中、私はそっと布団から顔を出した。
──その瞬間だった。
「ただいま」
玄関の方から、誰かの声が聞こえた。
明らかに男の声だった。
低く、くぐもったような、聞き取りにくい声。
私は恐怖で凍りついた。
その日は朝まで電気をつけて、ドアの前に椅子を置いて過ごした。
翌朝、管理会社に連絡し、室内の点検をしてもらった。
誰かが侵入した形跡はなかった。
カメラにも不審者は映っていなかった。
ただ一つだけ、異変があった。
玄関のドアの下に、黒く焦げた何かの跡がついていたのだ。
まるで、土足で煤けた足で立ったような……そんな跡。
大家はそれを見るなり、ぽつりと漏らした。
「……また出たか」
「また?」
「昔ね、あの部屋の住人が亡くなったの。仕事がうまくいかなくてね……最後は、誰にも看取られずに。
でもね、不思議だったのは、誰も鍵を持ってなかったのに……玄関が内側から閉まってたってこと」
「じゃあ……」
「そう。誰もいないはずの部屋に、“帰ってきた”のよ」
それ以来、私は夜になると決してテレビを消さないようにしている。
そして、毎晩必ず玄関に塩を盛るようになった。
もう「おかえり」の声を、聞きたくないからだ。
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