私は長野県の山間にある、小さな村で生まれ育った。
今ではすっかり過疎化が進んで、私の実家も空き家となって久しい。
ある年の秋、父が亡くなったのをきっかけに、私は何年ぶりかにその村を訪れることになった。
父の遺品整理のため、ひとりで数日間滞在することになったのだ。
村には観光地のような華やかさはないが、昔ながらの風景が残っており、懐かしさと同時に、少しの寂しさも感じていた。
滞在2日目の夜。
遺品の整理もひと段落ついた私は、気分転換に夜の散歩に出た。
空には満月が浮かび、周囲を照らしていた。街灯のない村では、月明かりが唯一の頼りだ。
歩きながら、ふと幼い頃によく遊んでいた古道のことを思い出した。
山のふもとにある細い道で、今ではほとんど使われていない。
舗装もされておらず、落ち葉と土に覆われたその道には、地元の人間もあまり近づかない。
「せっかくだし、行ってみるか。」
軽い気持ちで古道へ足を運んだ。
草木のざわめき、虫の声、そして自分の足音だけが響く中、私はゆっくりと道を進んだ。
5分ほど歩いた頃だ。
前方に、誰かが立っているのが見えた。
白い着物のような服を着た、長い髪の女。
こんな夜中に?
しかも、こんな場所で?
妙な胸騒ぎがしたが、ここは田舎だし、地元の誰かかもしれない。
そう思って声をかけようとした瞬間だった。
その女が、こちらを向いた。
顔が……なかった。
正確には、のっぺらぼうというわけではない。
顔の位置に、黒いモヤのようなものが渦巻いていて、目や口などのパーツが一切見えないのだ。
私は一瞬、息を呑んだ。
次の瞬間、女がこちらに向かって歩き出した。
「嘘だろ……」
足がすくみ、逃げ出そうにも体が動かない。
女は音もなく、しかし確実に距離を詰めてくる。
「やばい……やばい……!」
ようやく我に返り、背を向けて走り出した。
転びそうになりながらも、必死に古道を駆け抜ける。
後ろを振り返る勇気はなかった。
息を切らしながら実家にたどり着き、玄関の鍵を閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。
翌朝、夢だったのではないかと思い、もう一度あの古道へ行ってみた。
昨夜、女が立っていた辺りに、真っ白な和紙のようなものが落ちていた。
拾い上げると、それは顔の部分だけが焼け焦げた卒塔婆だった。
裏には、私の父の名前が書かれていた。
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