町外れの空き家にある古井戸には、近づいてはいけない——。
そんな噂が昔からあった。誰が最初に言い出したのかは分からないが、町の子どもたちはその空き家を「井戸屋敷」と呼び、遠巻きに眺めていた。
ある夏の終わり、大学のレポート課題として「地域の民間伝承」を調べることになった私は、興味本位でこの古井戸について深掘りしてみることにした。資料によれば、この屋敷には昭和初期まで家族が住んでいたが、ある日突然、全員が姿を消したという。それ以降、この家は誰の手にも渡らず、時の流れと共に朽ち果てていった。
地元の人から「やめた方がいい」と言われながらも、私は日中に屋敷へ足を踏み入れた。崩れかけた床、カビ臭い空気、そして、庭の奥にぽつんと残る石造りの井戸。覗き込んでも底は見えず、吸い込まれるような暗闇が広がっていた。
その夜。録音していたはずのフィールドノートに、奇妙な音が混じっていた。コツ…コツ…と、硬い何かが底を叩くような音。そして、女のかすれた声で「みつけて…」と。
翌日、再び井戸を調べに戻ると、蓋が少し開いていた。誰かが開けた形跡はない。蓋を完全に開けてスマホのライトで照らすと、底に何かが…いや、“誰か”が見えた。白い顔、濡れた黒髪。井戸の壁を這うように、こちらを見上げている。
その瞬間、私の体は金縛りに遭ったように動かなくなり、視線をそらせない。「みつけて…」その声が耳元に届いたとき、私は気を失った。
気づけば朝。井戸の前に倒れていた私を、町の人が見つけてくれたという。警察にも話したが、もちろん信じてもらえるはずがなかった。
だがあの夜以降、私の夢の中には毎晩、あの女が現れる。
「あなたしか、いないの…」
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