井戸の声

祖父が亡くなったのは、私が中学2年の夏だった。
葬式が終わったあと、祖母が一人で住んでいる山奥の家に、両親と一緒に手伝いに行った。

その家には、昔から使われていない古い井戸がある。

庭の片隅にぽつんと佇む井戸。
木の蓋がされていて、苔がびっしりと張りついている。

小さい頃は怖くて近づかなかったが、久しぶりに見た井戸は、何か…呼吸しているような気さえした。

初日の夜、祖母が唐突に言った。

「夜中に井戸のほうから声が聞こえても、絶対に近づいたらいけんよ」

冗談かと思ったが、祖母の目は真剣だった。

母は「そんなこと言わないの」と苦笑したが、祖母は顔を伏せたままだった。

その夜――私は目を覚ました。

カラカラ…カラ…

窓の外から、風で木が揺れるような音がする。

耳を澄ますと、井戸のある方向から、誰かの声が聞こえた。

「……おーい……おーい……」

低く、くぐもった男の声。

私は布団の中で息を潜めた。

(夢…だよね?)

目を閉じて朝が来るのを待った。

翌朝、祖母に「井戸のほうから声がした」と言おうとしたが、言い出せなかった。

昼間は普通の古民家だった。家の中も静かで、両親と祖母が談笑している。

だが、その夜――また聞こえた。

「……たすけて……おーい……」

声が近い。
井戸のそばまで来ているような錯覚。

気がつくと、私は窓を開け、庭に足を踏み出していた。

月明かりが照らす中、井戸の蓋のほうに歩いていく。

ふと足元を見ると、蓋の隙間から、赤黒い染みが広がっていた。

そしてそのとき、蓋の下から、明らかに人の手が伸びてきた。

「……見つけた……」

背筋が凍った。

一歩も動けずに立ち尽くしていると、突然後ろから祖母が叫んだ。

「◯◯!(私の名前)戻りなさい!」

振り返ると祖母が、竹箒を手にこちらに駆けてきた。

「見てはダメ! 聞いてはダメ!」

私は祖母に引っ張られ、家の中へ逃げ込んだ。

震えながら事情を尋ねると、祖母はぽつりと語り始めた。

「この家の井戸はな、戦後に埋めたんよ。戦争帰りの兄が発狂して…家族を…次々と…」

そこで言葉を切った。

「そのあと兄も、井戸に飛び込んで死んだんよ。でもな、井戸は埋めても、声は消えんのよ」

祖母はそれ以上語らなかった。

私たちはその翌日、予定より早く山を下りた。

それ以来、祖母から井戸の話を聞くことはなかった。

でも――

祖母が亡くなった数年後、遺品整理のために再びあの家を訪れたとき。

庭の井戸は、なぜか蓋が外れていた。
中を覗こうとした瞬間、風もないのに、草がザワザワと揺れた。

「……おーい……」

今でもあの声が、耳の奥に残っている。

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