大学時代、夏の終わりに友人と二人で温泉旅行に出かけた。
お互い節約志向だったので、ネットで見つけた格安旅館に泊まることにした。
口コミには「古くて不気味だが安い」とあったが、値段の安さに勝てなかった。
旅館は山の中にあり、木造三階建ての古びた建物だった。
受付で年配の女将に出迎えられ、二階の和室に案内された。
部屋に荷物を置いて、さっそく温泉に向かおうとしたとき、友人の山口が妙なことを言った。
「なあ……今、誰かいたよな?」
「は? 誰もいなかったけど?」
山口は部屋の隅にある押し入れをじっと見つめていた。
何か気味が悪くなり、冗談半分で襖を開けてみると、中には古びた座布団と毛布が一枚。
人の気配などまったくなかった。
「気のせいだろ」と笑いながら温泉へ。
風呂は意外と清潔で、ほっとしたのも束の間。戻ってきた部屋の空気が明らかに冷たかった。
暖房をつけた記憶はなかったが、窓も閉まっているのに肌寒い。
その夜、布団に入って寝ていたら、深夜2時ごろに「ギィ……」という襖の開く音で目が覚めた。
起き上がって押し入れを見ると、襖は確かに少しだけ開いていた。
だが中には誰もいない。
隣で寝ていた山口に声をかけようとしたが、彼はぐっすり眠っているようだった。
妙な胸騒ぎを感じつつも、気のせいだと言い聞かせて朝を迎えた。
チェックアウトのとき、フロントで支払いを済ませようとすると、女将がにこやかに言った。
「昨夜、もう一人のご友人は先にお帰りになられたんですね」
「……え? 二人だけでしたけど?」
「え? そうですか? てっきり三名様かと……。あの押し入れから出てこられたので、先に帰られたのかと……」
僕と山口は顔を見合わせ、無言で荷物を持ち出した。
旅館を出て車に乗り込み、しばらく無言が続いたあと、山口がぽつりと漏らした。
「……夢だと思ってたけど、夜中に誰かが布団の隣に座ってたんだよな」
助手席の僕は答えなかった。
なぜなら、僕も──夢うつつの中で、布団のすぐ横に白い顔がこちらを覗き込んでいるのを、確かに見た覚えがあったからだ。
コメント