あの部屋には入らないで

私たち家族がその家に引っ越してきたのは、春の終わりだった。
夫の転勤先に近く、築年数の割に妙に安い家賃に惹かれて契約を決めた。

古い一軒家で、六畳三間の和室が続く作り。少しカビ臭かったけれど、掃除すればなんとかなると思った。
ただ、二階の一番奥の部屋だけは、妙に空気が冷たかった。

荷ほどきの最中、五歳の娘がその部屋の前で立ち止まっていた。

「ママ、この部屋には、入らない方がいいよ」

冗談かと思い、「なんで?」と聞くと、娘はぽつりとこう言った。

「……女の人がずっと座ってるの」

ぎょっとしたが、子どもの空想だろうと笑い飛ばした。

ところが翌日、掃除機をかけようと二階に上がった私も、その部屋に違和感を覚えた。

開けると、誰もいないはずなのに畳が凹んでいる。

まるで、誰かがいつも同じ場所に正座しているような、そんな跡。

その晩、夫にその話をすると「気のせいだよ」と笑った。

けれど、それから奇妙なことが起こり始めた。

夜中、誰もいない二階から「ギィ……ギィ……」と畳をこするような音がする。

最初は猫でも入ったのかと思ったが、我が家にペットはいない。

娘は「夜、あの女の人が歩いてる音がする」と言い、布団にもぐって寝るようになった。

ある朝、娘の肩に指のような痕がついていた。
痣とも違う、赤黒い跡が五本。まるで大人の手で強く掴まれたような跡だった。

病院で診てもらっても、原因不明だった。

不安になり、私は大家さんに連絡した。
事情を話すと、しばらく沈黙の後、こう言われた。

「……その部屋には、あまり近づかない方がいいですよ。前の住人も、あの部屋だけは使っていませんでしたから」

問い詰めても、詳しくは語られなかった。

私は意を決して、あの部屋に盛り塩を置いた。
少しでも空気が変わればと思ったのだ。

しかしその夜──

私は夢を見た。

暗い部屋の中、女が正座している。
ぼさぼさの髪。うつむいて顔は見えない。

しかし、こちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。

目が、ない。

口が、耳まで裂けていた。

「ここは……わたしのへや……」

そう言った瞬間、女が私の方ににじり寄ってきた。

私は目を覚ました。

全身汗だくだった。悪夢だった。そう思い込もうとした。

けれど、枕元の盛り塩が黒く変色していた。

娘も悪夢を見たという。「あの女の人がママのこと睨んでた」と。

もう限界だと思い、引っ越しを決めた。

数日後、家族全員で荷物をまとめ、引っ越し業者を待っていたその日。
私はふと二階の廊下から、あの部屋の戸が“開いている”のを見た。

閉めたはずなのに。いや、鍵までかけたはずなのに。

恐る恐る近づくと、部屋の中に誰かがいた。

黒髪の女が、壁に向かって正座している。

その姿に見覚えがあった。夢の中の女だ。

私は足をすくませながら、声も出せず立ち尽くした。

女は、壁に何かを書いていた。

爪で。何度も。何度も。

壁に刻まれていたのは、こうだった。

「わたしを見たら、代わって──」

引っ越した今でも、夜に畳のきしむ音が聞こえることがある。

そして娘が時折、ぽつりとつぶやくのだ。

「……あの人、まだこっちに来ようとしてるよ」

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