風の通り道

大学生の頃、僕は地方の古びたアパートで一人暮らしをしていた。
 築40年近く、木造二階建て、家賃は格安だったが、隣室との壁が薄く、風の強い日は建物全体がギシギシと軋んだ。

 2階の角部屋、201号室。そこが僕の部屋だった。
 日当たりは悪くなかったし、最寄りの駅からも近く、僕は特に不満を感じていなかった。

 ある日、深夜1時過ぎ。
 ベッドに入って眠りにつこうとしたとき、不意に「カタ……カタ……」と何かが揺れる音が聞こえた。

 最初は風かと思った。
 けれど、その夜は無風だった。窓も閉め切っている。音の出どころは、部屋の奥にある押し入れのほうだった。

 恐る恐る立ち上がり、スマホのライトを頼りに押し入れの戸を開ける。
 中には布団と衣装ケースしかない。どれも動いている様子はない。

 「気のせいか……」

 そう思い直し、再びベッドに戻った。

 けれど翌晩──また同じ時間に、同じ音が聞こえた。
 今度は「カタ、カタカタ……ギイィ……」と押し入れの戸が軋むような音までした。

 この日を境に、毎晩のように音が続くようになった。
 そして一週間ほど経った頃、決定的な異変が起きた。

 ベッドに横になっていると、身体が急に重くなった。
 金縛り、だった。

 目を開けると、天井に人の影が映っていた。
 それは、天井に這いつくばるようにして、四つん這いで動いていた。
 影の顔は見えない。けれど、こちらにじっと顔を向けているのがわかった。

 声を出そうとしても出ない。身体もまったく動かない。
 そして次の瞬間──影が、すうっと天井から下りてきた。

 目の前まで近づいた影の顔には、目も鼻も口もなかった
 のっぺらぼうのように、のっぺりと平たい顔。
 その顔が、僕の顔に触れそうになる。冷たい空気が肌を撫でた瞬間、意識が途切れた。

 目覚めたのは朝だった。全身汗びっしょりで、喉はカラカラに乾いていた。
 夢だったのかと疑ったが、押し入れの戸が半開きになっていた。
 前夜、確かに閉めたはずなのに。

 さすがに怖くなり、管理会社に連絡して過去の入居者のことを尋ねた。
 最初は渋っていた担当者も、僕が「毎晩押し入れの音がする」と伝えると、口を濁しながら教えてくれた。

 「……実は、数年前に201号室で若い女性が孤独死してたんです。
 体調が悪いまま夏に倒れて、しばらく誰にも気づかれず……。
 発見されたのが、押し入れの中だったそうです」

 押し入れの中に──?

 背筋が凍った。
 あの「カタカタ……」という音は、彼女が戸を叩いていたのだろうか。
 僕に気づいてほしくて。忘れられたまま、誰にも見つけてもらえなかった寂しさを、今もそこに留めているのかもしれない。

 僕はすぐに部屋を引き払った。

 今でも思い出す。
 あの顔のない影が、風もない夜に天井を這いながら、こちらを見下ろしていた姿を。

 あれは「風のせい」なんかじゃなかった。
 あの部屋には、確かに何かが“通っていた。

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