山奥の小さな村に、「見送りの家」と呼ばれる古民家がある。
正式な住所は残っておらず、地図にも載っていないが、地元の人々の間では有名だった。
「入った者は、見送られるまで出られない」――そう言われていた。
私は都市伝説を追うライターとして、その家の噂を取材することになった。
古い伝承や噂話は大抵脚色がある。
だが、今回の話だけは、どこか“現実味”があった。
山道を登ること数十分。木々に覆われた奥に、ぽつんと佇む古民家が見えた。
瓦は剥がれ、外壁は苔に覆われ、まるで息を潜めるようにそこにあった。
玄関の扉は半開きだった。
誰かが最近入ったような気配もあったが、人の気配はない。
懐中電灯を片手に中へと入る。
中は不思議と埃が少なく、誰かが管理しているような清潔さすら感じられた。
畳の部屋がいくつも続き、廊下の奥には仏壇のようなものが置かれている。
部屋を一つずつ覗いていくと、ある部屋のふすまに違和感があった。
普通のふすまのように見えるが、裏側に紙が貼られていた。
『この家を出るときは、挨拶を忘れずに』
そんな文字が達筆で書かれていた。
妙に引っかかるが、ひとまず全ての部屋を調べ終わり、帰ろうとした。
だが――玄関が開かない。
確かに開いていたはずの扉が、なぜか内側から閉まり、びくともしない。
鍵がかかっているわけでもなく、引いても押しても、まるで壁のように動かない。
窓も同様だった。全てが“外と繋がっていない”。
焦って室内を調べ直していると、ふと気づいた。
仏壇の横に、古びた鏡が立てかけられていたのだが、そこに自分以外の姿が映っていた。
小さな子供のような影が、こちらをじっと見ていた。
私は思い出した。あの紙の文言。
「この家を出るときは、挨拶を忘れずに」
もしかして――。
私は仏壇の前に正座し、手を合わせた。
「お邪魔しました。ありがとうございました」
すると、不意に――パチン、と音を立てて玄関が開いた。
驚いて外に出ると、風が吹き抜けた。
振り返ると、先ほどまで開いていたはずの扉はピシャリと閉まり、まるで最初から誰もいなかったかのような静寂が戻っていた。
この家は、本当に“見送って”くれていたのかもしれない。
ただ一つ、気になることがある。
帰宅して撮影した写真を確認すると、仏壇の隣に立っていたはずの鏡は――写っていなかった。
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