これは、大学時代に山奥のロッジに泊まりに行ったときの話だ。
仲の良い友人4人での小旅行。季節は秋。紅葉が美しい場所で、バーベキューと星空を楽しもうという計画だった。
ロッジは古かったが、雰囲気があり、夜になるとあたりは完全な闇に包まれた。
携帯の電波は届かず、街灯もなく、聞こえるのは風の音と虫の声だけ。
夜中、皆が寝静まった頃。
俺はトイレに行きたくなり、一人で布団を抜け出した。
トイレは外の離れにあり、懐中電灯を手に、ロッジの裏手へ回った。
そのときだ。
「……たけし……」
背後から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
しかし、声はかすれていて、まるで遠くから響いてくるようだった。
振り返ったが、誰もいない。
風の音か?そう思って足早に用を済ませ、ロッジへ戻った。
布団に入ると、再び。
「……たけし……こっち……」
今度は、はっきりと耳元で。
確かに、女性の声だった。
ゾクリとした。
隣の布団で寝ていた友人の一人、陽介が顔をしかめながら寝返りを打った。
俺は動けなくなった。金縛りだ。
目だけを動かして天井を見ていた。
すると──視界の隅に、天井の角に黒い影が張り付いているのが見えた。
影は人の形をしており、逆さまに天井を這うようにこちらを見ていた。
「……こっち……たけし……」
目が合った。
その瞬間、喉が凍りついたように叫び声が出なかった。
影はスルスルと天井を移動し、俺の上まで来ると、首をかしげた。
「……みつけた……」
次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
気がつくと、朝だった。
他の友人たちは何も覚えていなかったが、陽介だけが言った。
「夜中、誰かが『たけし』って何度も呼んでて、うるさかったぞ」
俺は何も言わず、旅の帰り道、ロッジの管理人にあの夜のことをそれとなく話した。
管理人は険しい顔になり、こう言った。
「……数年前にね、あの部屋で首を吊った女性がいたんだよ。
恋人に裏切られて、その男の名前が『たけし』だったって……」
あの声は、彼女だったのか。
そして、“俺”を呼んでいたのか、“誰か”に届くはずだった声が、俺に届いてしまったのか。
以来、夜中に名前を呼ばれる声が聞こえるたび、あの天井の影を思い出す。
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