午前10時。私はいつものように在宅ワークをしていた。
この仕事を始めてから、人と会うことはめっきり減ったけど、静かな時間が好きだった。
最近は家の中でできることも増えて、食料も日用品も全部ネットで済む。
こんな生活、最高じゃないかと思うくらいだ。
そんなとき、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、見知らぬ女性が立っていた。
20代後半くらいだろうか。清楚な雰囲気で、こちらをじっと見ていた。
「……はい?」
「こんにちは。〇〇保険の者です。ちょっとお時間よろしいですか?」
営業か。どうせ契約の勧誘だろうと思い、「結構です」と断った。
その日はそれで終わった。
翌日、また同じ時間にインターホンが鳴った。
モニターを確認すると、昨日の女性だった。
「あの、昨日お話した〇〇保険の者です。少しだけ、お時間……」
私は少し苛立って、「昨日もお断りしましたよね」と返した。
彼女は申し訳なさそうに頭を下げたが、どこかで「まだ来そうだ」と思った。
案の定、翌日も、またその次の日も来た。
もう4日連続だった。
私はついに怒りを込めて、「何度も来ないでください!」と叫んでしまった。
すると彼女は少し黙ってから、「……はい、わかりました」とだけ言い、モニターから姿を消した。
やれやれと思いながらソファに座った瞬間、スマホに通知が届いた。
「〇〇保険に関するご契約のお知らせ」
……?
おかしい。契約した覚えなんてない。
アプリを開くと、私の名前で契約が進んでいる。住所もメールも合っている。
さらにその翌日、私は市役所から通知を受け取った。
「住民基本台帳の確認について」
誰かが、私の住民情報を変更しようと申請していたのだ。もちろん、私は何もしていない。
気味が悪くなって警察に相談したが、「実害がないので対応は難しい」と言われた。
その日の夜。シャワーを浴びているとき、リビングから何かが落ちる音がした。
慌ててバスタオルのままリビングに行くと、テーブルの上に置いていたはずの財布が床に落ちていた。
位置的に、風で落ちるような場所ではない。
……家に誰か入った?
けれど鍵は閉まっていたし、チェーンもそのままだった。
しばらくは不安で眠れなかったが、翌日から彼女はもう来なかった。
数日後、ようやく落ち着いたと思っていた頃。ポストに手紙が入っていた。
差出人の名前は、あの保険会社の女性。
「ご契約ありがとうございました。これで、正式に“あなた”を引き継ぐことができます。
あなたはもう外に出る必要も、誰かと関わる必要もありません。
静かに、その部屋でお過ごしください。」
──そのとき、私はようやく気づいた。
部屋の中のものが、少しずつ“私のもの”ではなくなっている。
着ている服、PCのログインパスワード、スマホの顔認証……
すべて、“別の誰か”が使っているような違和感がある。
ふと、インターホンが鳴った。
モニターには、私と全く同じ顔の女が立っていた。
「……ただいま」
そう言って、彼女は勝手にドアを開けた。
私は立ち上がろうとしたが、体が動かなかった。
口だけが、勝手に笑っていた。
■ 解説
この話の怖さは、「語り手」が徐々に“自分”ではなくなっていく点にあります。
- 最初は“しつこい営業”のように見えた女性は、実は語り手になりすますために着々と手続きを進めていた存在
- 保険契約、住民情報の変更、そして最終的に語り手の部屋や情報までも「引き継いだ」
- ラストでインターホンに映ったのは完全に“成り代わった”もう一人の語り手
- 現在語っている“語り手”は、すでに“内側に閉じ込められた存在”である
つまりこの話は、「自分の人生が静かに乗っ取られていく恐怖」を描いています。
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