高校3年の秋、受験勉強で夜遅くまで塾に通う日々が続いていた。
家に帰ると、玄関のドアを開けながら「ただいま」と声をかけるのが習慣だった。
すると、奥のリビングから必ず「おかえり」と母の声が返ってくる。
疲れて帰る日々の中で、その声は何よりも安心できるものだった。
ある日、塾が終わって家に帰ると、ドアを開けていつものように「ただいま」と言った。
すると、奥から「おかえり」と聞こえた。
でも、少し違和感があった。
母の声にしては、少し低い気がした。
でも気のせいだろうと思い、いつものようにリビングに向かった。
ところが――誰もいなかった。
あれ?と思って家の中を探すと、母の部屋の電気も消えていて、家には私しかいなかった。
玄関を振り返ったそのとき、「ドアが開いていた」ことに気づいた。
私はいつも、家に入ったらすぐにドアを閉めて鍵をかける。
でもその日は、何気なく閉め忘れていたらしい。
一気に背筋が冷たくなった。
翌朝、母に昨夜のことを話すと「そんな時間にはもう寝てたわよ」と言われた。
やっぱり聞こえた声は母のものではなかったのかもしれない。
でも、それはほんの始まりに過ぎなかった。
数日後の夜、また同じように「ただいま」と言うと、再び「おかえり」と声が返ってきた。
だが今度ははっきりとした違和感があった。
声が二重に聞こえたのだ。
低く濁った声と、それにかぶさるような高い声。
まるで、複数の人間が同時に喋っているようだった。
玄関を振り返っても誰もいない。
気味が悪くなって、ドアにチェーンをかけ、部屋の明かりをすべて点けたまま寝ることにした。
だが、その晩、夢を見た。
薄暗い廊下を歩く自分。
その背後から、足音がピタリとついてくる。
「おかえり」と声がして、私は振り返る。
そこには、自分の顔をした“誰か”が立っていた。
翌朝目覚めると、リビングの床に“ただいま”と書かれた紙が置いてあった。
私も母も書いた覚えはない。
念のため警察に相談したが、「イタズラの可能性もある」と言われたきりだった。
それからというもの、帰宅時に声をかけるのをやめた。
だが、今も玄関を開けると、「おかえり」と誰かが言う。
こちらが「ただいま」と言わなくても――。
解説
この話の怖さは、“意味に気づいたとき”に一気に恐怖が広がる点にあります。
- 最初の「おかえり」は、母ではなく**“何か”が返していた**。
- その“何か”は家の中にすでに入り込んでいた可能性が高い。
- 夢の中に現れた“自分の顔をした存在”は、自分になり代わろうとするもの(いわゆる“ドッペルゲンガー”や“憑依”)の暗示。
- 「ただいま」と言わなくても「おかえり」と返ってくるようになった=相手が“家主”の座に就いたことを示唆している。
- 最終的に、主人公のアイデンティティや居場所が奪われつつある…という恐怖がじわじわ広がっていきます。
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