大学へ通う通学路の途中、駅前の交差点の角に、毎朝立っている女性がいた。
年齢は30代前半くらい。
黒いスーツ姿で、手には何も持たず、ただ一点を見つめて立っている。
表情は硬く、笑うこともなく、毎朝まったく同じ姿勢で、同じ場所にいた。
最初は「出勤前の会社員かな」と思った。
だが、数日が経っても彼女は微動だにせず、いつも同じ格好で、同じ位置に立ち続けていた。
ある朝、雨が降っていた。
私は傘をさして駅へ向かっていたが、ふと例の角に目をやると、彼女はそこにいた。
傘も差さず、びしょ濡れのまま、じっと前を見つめていた。
髪から水が滴り落ち、スーツも肌に張りついていたが、表情はいつもと同じ、何の感情もない。
「さすがにおかしい」と思い、近くの交番でそのことを話してみた。
対応してくれた若い警察官は苦笑いしながら言った。
「そんな通報は聞いていませんね。駅前の角なら人通りも多いし、誰かが気づいててもいいはずなんですが……」
そのとき私は、「あの人、俺にしか見えてないのかもな」とふとよぎった。
だが、それでも次の日、彼女はいた。
しかも、その日からは少しだけ変化があった。
彼女の視線が、こちらに向いている気がしたのだ。
最初は前を向いていたはずなのに、いつからか、私が通るタイミングになると、顔をゆっくりとこちらに向けてくるようになった。
数日後、試しにスマホで写真を撮ろうとした。
ファインダーを覗くと──そこには誰もいなかった。
慌てて目視で確認すると、彼女は確かにそこにいた。
だが、再びファインダーを通して見ると、やはり何も映らない。
気味が悪くなりスマホを下ろそうとした瞬間、耳元で囁くような声がした。
「見つけてくれて……ありがとう」
驚いて辺りを見渡したが、誰もいなかった。
次の日から、彼女の姿は消えた。
それから数週間が経ち、私は彼女のことを忘れかけていた。
しかし、ある朝、駅のホームで電車を待っていると、反対側のホームに立つ誰かの視線を感じた。
見上げると──あの女性が、こちらをじっと見つめていた。
笑顔もなく、まったく動かず、ただこちらを見ていた。
そしてその日以降、行く先々で“彼女の姿”を見かけるようになった。
図書館の窓の外、公園のベンチ、深夜のコンビニ前。
いつも少し離れた場所から、私を見ている。
もしかしたら、最初に見つけたときに、関係ができてしまったのかもしれない。
「見つけてくれて、ありがとう」──その言葉が、今になって重くのしかかってくる。
誰にも言えない。ただ、彼女は今も、どこかで私を見ている。
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