転職を機に一人暮らしを始めた。
会社から徒歩10分ほどの築浅マンションで、立地のわりに家賃も安く、内見のときもとても静かだった。
壁も厚く、防音もしっかりしている。
……と、思っていた。
入居して数日後、夜に家でくつろいでいると、壁の向こうからかすかに音がした。
「……ゴト……ゴト……」
家具を動かすような音。
最初は「隣人が模様替えでもしているのか」と気にしなかった。
だが、次の日も、その次の日も、ほぼ同じ時間に音がする。
決まって、夜10時すぎ。
耳を澄ますと、「ゴト……ゴト……」という音に混じって、小さく「ヒュッ……」と息を吸うような音まで聞こえた。
気味が悪くなり、壁に耳をつけてみた。
その瞬間、「ドンッ」と強く叩かれた。
びくっとして後ずさりする。
……まるで、向こう側で誰かがこっちを見ていたかのように。
次の日、管理人に相談した。
「隣の部屋の方、夜中に家具動かしてたりしませんか?」
すると、意外な返答が返ってきた。
「お隣? 今は誰も住んでませんよ。
前の方は1ヶ月前に退去されて、それからずっと空室です」
……じゃあ、あの音は何?
帰宅するたびに壁の向こうが気になるようになり、ある夜、私は玄関の外に出て、隣の部屋のドアに耳を当ててみた。
何の音もしない。
だが、じっとしていると、ドアの隙間から何かの匂いがした。
……ツンとした、汗のような、体臭のような匂い。
おかしい。
空室のはずなのに、人が長時間閉じこもった部屋の匂いがする。
その日の夜、私は眠れなかった。
布団に入っても、隣から「ギシ……ギシ……」と何かがきしむような音が聞こえる。
寝返りを打つ音? 歩き回ってるのか?
明け方、夢うつつの中で、私は妙な声を聞いた。
「……聞いてるんでしょ」
夢だったのか、本当だったのか。
朝になっても、気持ちが悪かった。
そして翌日。
仕事から帰ってくると、ポストに小さなメモ用紙が入っていた。
「壁、うるさいです」
筆跡は細く、歪んでいた。
署名もなし。封筒もなし。メモ1枚だけ。
私はぞっとした。
私の生活音が響いている?
でも、隣は空室のはず……。
管理人に再度問い合わせると、こう言われた。
「変ですね……あ、でも最近、隣の部屋のドアの鍵が勝手に外れていたことがありました。
誰かが無断で侵入している可能性もあるかもしれません」
警察に連絡し、調べてもらった。
だが、中は誰もいなかった。
窓も閉まり、室内に侵入の痕跡もなし。
ただ、部屋の奥にある押入れの戸が、ほんの少しだけ開いていたという。
警察は「異常なし」で片付けたが、私はもう限界だった。
翌週、引っ越し先を決め、退去の準備を始めた。
荷物をまとめていると、壁の隅に、1枚の紙が貼られているのを見つけた。
壁と家具の隙間に、古いテープで貼り付けられていたそれには、こう書かれていた。
「ここは静かにする部屋です。声を出さないでください」
裏には、赤いボールペンで大きく書かれていた。
「返事をしてはいけません」
私はすぐにその部屋を出た。
後日、管理会社から電話があった。
「お引っ越しされた後、隣室の清掃をしたんですが……
押入れの中に、寝袋と大量の空き缶がありました。
誰かが、ずっと中に隠れていたようです」
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