大学進学を機に、私はある古いアパートへと引っ越した。築40年のその建物は多少の不便はあったものの、駅近で家賃も安く、学生にはありがたい物件だった。
私の部屋は2階の端。隣の部屋には、20代後半くらいの男性が住んでいるらしい。しかし、私はその人の姿を一度も見たことがなかった。
ポストには毎日のようにチラシが詰まり、部屋のカーテンはいつもぴったりと閉じられている。昼も夜も、雨の日も晴れの日も、一度も開いたことがない。管理人に尋ねても「あの人は夜勤だから」とあまり多くは語らなかった。
気味が悪いとは思いながらも、私は気にしないようにしていた。
ところがある日、アパートの廊下で荷物を落としてしまい、それを拾おうとかがんだ瞬間、ふと隣の部屋の玄関の隙間に違和感を覚えた。わずかに開いたドアの奥から、何かがこちらを見ている気がしたのだ。
その夜、私は寝つけずにいた。夜中の2時を回ったころ、ふいに「カタ…カタ…」と壁の向こうから音がする。まるで誰かが机を指で叩いているような、落ち着きのない音だった。
数日後、アパートの掲示板に警察の張り紙が出された。「不審な人物の目撃情報についてご協力を」と書かれていた。
私は意を決して、隣の玄関前まで行ってインターホンを押してみた。応答はない。試しにドアノブを軽くひねると、なんと施錠されていなかった。
開いたドアの隙間から、中をのぞいた私は思わず息を飲んだ。
部屋の中には家具も家電も一切なく、空っぽの部屋に埃が舞っているだけだった。壁際には古びた折り畳み椅子と、小さなぬいぐるみがぽつんと置かれていた。
人の気配はなかった。だが、カーテンだけは、ピンと張られたまま、しっかりと閉じられていた。
私は静かにドアを閉めた。そしてそれ以来、二度とその部屋に近づくことはなかった。
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