誰もいないはずの隣室

仕事の都合で、都内のウィークリーマンションを借りた。
築年数はそれなりだが、内装はきれいで、駅からも近い。1Kのシンプルな間取りで、左右の部屋との距離もそれほど近くない。騒音の心配もないと思っていた。

だが、初日の夜。
隣の部屋から、かすかな物音が聞こえてきた。テレビの音とも、話し声とも違う。何かが擦れるような、「ゴリ…ゴリ…」という不規則な音。

そのときは気にしなかったが、翌日もまた同じ時間に音が鳴った。23時を過ぎた頃から、断続的に続くその音は、妙に耳についた。

管理会社に問い合わせたが、「その部屋は現在空室のはずです」と言われた。

いや、そんなはずはない。
毎晩、誰かがそこに“いる”。

3日目の夜、耐えきれなくなって壁に耳を当ててみた。すると、はっきりと人の声が聞こえた。

「……やっぱり、聞こえるんだな……」

心臓が跳ね上がった。

恐ろしくなってすぐに管理会社へ連絡し、念のため警察も呼んでもらった。数十分後、管理会社の人と警察官が到着し、僕と一緒に隣室のドアを開けた。

中は……空だった。

家具も荷物もない。床にうっすらと埃が積もり、人の気配はまったくなかった。

ただ、ひとつだけ、奇妙なものが残されていた。

壁に無数の傷跡があったのだ。
カッターのようなものでつけた浅い線が、床から天井まで、びっしりと。

「これ……人が自分でやったんですかね……?」

警察官がつぶやいた。

その夜、僕は眠れなかった。
壁の向こうから、またあの音が聞こえ始めたのだ。

ゴリ……ゴリ……

そして声が、はっきりとこう言った。

「今度は、こっちの壁だな」

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