僕が大学2年のときに住んでいたアパートは、築30年近い古い木造だった。
 安さに惹かれて選んだ物件で、風呂トイレ別で家賃は3万円ちょっと。周囲には学生が多く、特に不満もなかった。
 隣の部屋──つまり「203号室」だけは、ずっと空き部屋のままだった。
 貼り紙もなく、不動産会社のサイトでも募集がかかっていない。
 僕は何となく「ああ、なにか事情があるんだろうな」と思い、それ以上は気にしていなかった。
ある晩、深夜2時ごろ、壁の向こうから物音が聞こえた。
ガタッ、ガタガタ──ドン。
 しばらくすると「うぅ…うう……」という声も聞こえてきた。
 最初はテレビかと思ったが、あまりにも生々しい。なにより、隣は空き部屋のはずだ。
次の日、大家さんに会ったときに聞いてみた。
「あの、隣の部屋って誰か住んでます?」
大家さんは少しだけ間をおいて、首を横に振った。
「いや、空き部屋のままだよ。なにかあった?」
僕は軽く笑ってごまかしたが、気味が悪さは消えなかった。
それから数日後、夜中にトイレに行こうとして廊下に出たときのこと。
 ふと目に入ったのは、玄関のドアの郵便受けに差し込まれた何か。
 手紙かと思って引っ張ると、それは封筒ではなく──鍵だった。
銀色の、古びたアパートの合鍵だった。
 おそらく、誰かが間違えて隣の部屋の鍵を僕の部屋に入れてしまったのだろう。
 僕はポストに戻そうとしたが、ふと、ある好奇心が勝った。
この鍵で、203号室が開くのか──?
その日の昼、大家さんが外出しているのを見計らって、僕は隣の部屋の前に立った。
 鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
 カチャリ、と音を立ててドアは開いた。
 中は暗く、空気がひんやりとしていた。
 誰も住んでいないはずなのに、家具がある。しかも生活感がある──冷蔵庫、ソファ、テレビ、小さなダイニングテーブル。
信じられなかった。空き部屋じゃなかったのか?
 そのとき、奥の寝室のドアが音もなく開いた。
 中から出てきたのは、痩せこけた中年の男だった。
無精髭を生やし、無表情のままこちらを見つめている。
「……鍵、返してくれる?」
その声を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。
 僕は無言で鍵を差し出し、無我夢中で自分の部屋に戻った。
 その日の夜から、部屋のインターホンが鳴るようになった。
 画面には、あの男が映っていた。
笑いながら、静かにドアをノックしていた。

 
			 
			 
			 
			 
			 
			 
			 
			
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