田中さんは、もういない

派遣で入った職場で、最初に仲良くなったのが田中さんだった。
40代後半の優しい女性で、なんでも丁寧に教えてくれた。

「ここの仕事、覚えちゃえば簡単よ。焦らずやれば大丈夫」

田中さんはベテランで、周囲からも頼られていた。

数ヶ月が経ったころ、急に田中さんが姿を見せなくなった。

「体調不良でしばらくお休み」とのことだったが、理由は曖昧。

その翌週、田中さんが復帰した。
──はずだった。

確かに名前も田中さん、外見も似ている。

けれど、どこか違う。

笑い方が変わっていた。
以前は控えめに笑っていたのに、今は口を大きく開けて笑う。
話すテンポも早くなって、まるで別人のようだった。

最初は「病気で性格が変わったのかな」と思っていた。
でもある日、田中さんと話していて、ゾッとする出来事が起きた。

「私、あなたが初日に失敗した伝票の件、覚えてるわよ。あれ、大変だったもんね」

……え?
その伝票ミス、田中さんが休んでからのことだったはず。

一緒に仕事してたのは、別の先輩だった。

「いつの話ですか?」と聞くと、田中さんは急に笑いを止めてこう言った。

「んー……たぶん夢と混ざってるのかもね」

その返しに妙な“はぐらかし”を感じて、鳥肌が立った。

その日から、俺は過去のチャットログや書類を遡って確認した。
すると驚いたことに、「田中さんがいなかった期間」の資料にもしっかり彼女の名前がある。

同僚にこっそり聞いてみた。

「あの……田中さん、ずっと普通に出勤してましたよね?」

すると同僚は首を傾げた。

「……田中さん? 誰?」

「え? 隣の席の……ほら、40代の女性で、最初に俺に色々教えてくれて……」

「ああ……あの席って最初から空席だったよ?
ずっとあなた一人でやってたし」

──頭が混乱した。

確かに、田中さんと毎日話していた。
教えてもらっていた記憶も、声も、ぜんぶはっきりしている。

でも、同僚の誰も彼女を“知らない”。

もう一度田中さんに会って話そうと思ったが、
その日以降、彼女はまた姿を消した。

勤怠にも履歴が残っていない。
連絡先も、もう俺のスマホには存在していなかった。

上司に聞くと、こう言われた。

「君、少し疲れてるんじゃないか?」

あれは、なんだったのか。

俺の記憶が壊れていたのか。
それとも、本当に「誰か」が入れ替わっていたのか。

ただひとつ確かなのは──
田中さんは、もういない。

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