無言の客

私は都内の個人経営のカフェでバイトをしている。
平日の夜は客も少なく、ほとんどが常連か近所の会社員だった。

ある日、閉店1時間前の午後9時頃、一人の女性客が来店した。
30代前半くらい。長い黒髪で、薄いベージュのコートを羽織っていた。
印象的だったのは、彼女が一言も言葉を発さなかったことだ。

メニューを差し出しても反応はなく、ただ指をさしてコーヒーを注文した。
私は少し不安を覚えたが、注文通りに対応し、静かに時間が過ぎていった。

閉店時間が近づいてきても彼女は動かず、コーヒーカップはほとんど手つかずのまま。
「すみません、そろそろ閉店なので……」と声をかけると、彼女はゆっくり立ち上がり、レジに向かってきた。

そして、支払いをせずにそのまま店を出ていこうとした。

「あの、お会計……」

私がそう言うと、彼女は振り返り、じっと私を見た。
表情はなく、目だけが妙に濁っていた。

……その瞬間、私は全身に鳥肌が立った。
彼女の顔に見覚えがあったのだ。

数日前、同僚が「この近所で自殺があった」と話していた。
廃屋のトイレで首を吊っていた女性の写真がSNSに流れていて、私はなんとなく見てしまっていた。

……その写真と、彼女の顔が一致した。

私は慌てて店長を呼んだが、戻ってきたときには、彼女の姿はなかった。
店内には誰もおらず、レジもいじられた様子はなかった。

ただ、彼女が座っていた席に、一枚の千円札が丁寧に折りたたまれて置かれていた。

次の日、店の防犯カメラを確認したが、彼女の姿は映っていなかった。
代わりに、私が虚空に向かって注文を受け、コーヒーを運び、話しかけている映像だけが残っていた。

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