春先、私は引っ越しをした。
都内の古いアパートだが、内装はリフォームされていて綺麗だった。
何より、大家さんがとても親切だったのが印象的だった。
「ひとり暮らしは不安でしょう?何かあれば、いつでも声かけてくださいね」
その言葉に少し安心しながら、新生活を始めた。
引っ越してから3日ほど経った夜、インターホンが鳴いた。
ドアを開けると、そこには大家さんが立っていた。
「これ、引っ越し祝い。たいした物じゃないけど……」
そう言って手渡されたのは、小さな包み。
中には桜柄の手ぬぐいと、和菓子が2つ入っていた。
「ありがとうございます」と受け取り、少し話をしてから大家さんは帰っていった。
翌日、玄関にまた包みが置かれていた。
同じ手ぬぐいと、和菓子。
不思議に思ってインターホンの履歴を確認すると、訪問の記録はなかった。
不審に思いながらも、また礼を言いに行こうと大家さんの部屋を訪ねた。
しかし、部屋はもぬけの殻だった。
隣の住人に尋ねると、驚いた顔でこう言われた。
「えっ?このアパート、大家なんていませんよ。管理会社が全部やってますけど?」
私は混乱した。
あの女性は?毎晩のように現れた“大家さん”は?
念のため管理会社に確認したところ、「数年前に亡くなられた旧大家の女性はいた」とのこと。
さらに詳しく調べると、その旧大家は──
入居者に異常なほど干渉し、最後には部屋に押しかけて毒入りのお菓子を食べさせたとして、警察沙汰になったという。
以来、その名義は抹消され、アパートは管理会社の管轄に変わったらしい。
私は、震える手で、もらった和菓子をゴミ袋に捨てた。
ふと、ゴミ袋の底を見たとき、背筋が凍った。
和菓子の包み紙の裏に、黒いマジックでこう書かれていたのだ。
「食べてくれないと、出ていけないじゃない」
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