大学生になって初めての一人暮らし。
それは自由と引き換えに、少しの不安と寂しさが付きまとうものだった。
私の部屋は、築年数が古いが家賃の安い4階建てのアパートの3階にあった。
ワンルームで狭いながらも、十分な広さだった。
ただ、ひとつだけ妙なことがあった。
共用廊下に、毎晩同じ時間に立っている男がいたのだ。
その男は、午後10時になると必ず現れる。
年齢は40代後半くらい、髪はぼさぼさで、スーツ姿。
何をするでもなく、ただ廊下の端に立ち、前を見つめている。
最初はたまたま見かけただけだと思った。
だが、数日後も、またその数日後も、全く同じ場所、同じ格好で立っていた。
廊下の監視カメラにも写っていたが、特に不審な行動はしていないとのこと。
とはいえ、気味が悪かった。
ある晩、ゴミ出しをするために外に出た際、思い切ってその男に声をかけた。
「こんばんは、何かお探しですか?」
彼は無言でこちらをじっと見つめ、そしてこう言った。
「…この部屋、昔、私が住んでたんだ」
驚いた。
彼が指差したのは、私の部屋だった。
話を聞いてみると、どうやら彼は数年前に離婚し、この部屋でしばらく一人で暮らしていたらしい。
「毎晩、妻が帰ってくると思って、ここで待ってたんだよ」
そう言って笑う顔は、どこか壊れていた。
それからも彼は夜な夜な現れ続け、私の部屋の前に立っては、誰かを待つようにドアを見つめていた。
管理人に相談したが、追い出すには警察を呼ばなければならないとのこと。
だが、警察を呼ぶほどの違法行為ではないため、対応できないと言われた。
それでも怖くなり、私はある晩、内側から鍵を二重にかけ、ドアにチェーンも取り付けて眠ることにした。
その夜、夢を見た。
玄関のドアの外に、例の男が立っていて、ゆっくりとノックする夢だった。
「コン…コン…」
静かに、そして確実に。
次の朝、目覚めて玄関を見ると、ドアノブに黒いスーツの繊維が数本絡まっていた。
私は凍りついた。
その翌日から、男は来なくなった。
代わりに、私の部屋のポストには毎日のように、真っ白な封筒が投函されるようになった。
中身は――空だった。
無言のまま何かを訴えてくるような、ただの白い封筒。
そのまま1週間が過ぎたころ、管理人が私に封筒を手渡してきた。
「ポストに入りきらなくなったので、預かっておきました」と言って。
受け取った封筒の束は、全部で30通以上。
私は耐えきれず、その日を最後に部屋を引き払った。
今でも、夢の中であのノックが聞こえることがある。
「コン…コン…」
誰かが、まだ外で待っている。
コメント