数年前、上京して最初に住んだのは、都内の格安シェアハウスだった。
6畳の個室にキッチン・風呂・トイレ共同という、よくあるタイプ。築年数は古かったが家賃が安く、何より駅近だったので即決した。
入居当日、出迎えてくれたのは30代くらいの女性・Aさん。
彼女はその家の管理人も兼ねていて、「ルールを守ってくれれば快適な場所だから」と優しく説明してくれた。
ルールは簡単だった。
- 夜10時以降は物音を立てないこと
- 共用部(キッチン・風呂・トイレ)は必ず使用後に掃除すること
- 他の住人の部屋の前で立ち止まらないこと
最後のルールだけ少し気になったが、「防音が甘いから気を使ってるだけ」と言われ納得した。
住み始めて数日は特に問題もなかった。4人の住人とも挨拶を交わし、それぞれ距離を保っていた。静かで清潔で、不満はなかった。
だが、ある夜。
シャワーから上がり、廊下を通って部屋に戻ろうとしたとき、ふと気配を感じて振り返った。
誰もいない。
……はずだった。だが、右端の部屋――204号室の前に、“誰か”が立っていた。長い髪、薄い部屋着。暗くて顔までは見えなかったが、背筋が妙にぞっとした。
そのとき、不意にAさんの声が背後から響いた。
「部屋の前に立ち止まらないで」
驚いて振り向いたが、そこにも誰もいなかった。
翌日、Aさんにそのことを話すと、「あの部屋には誰も住んでいない」と言われた。
私の記憶では204号室の住人――眼鏡をかけた無口な男性がいたはずだ。だがAさんは、「その人は3ヶ月前に退去して、今は空き部屋」と断言した。
信じられず、他の住人にも尋ねた。
だが、全員が「204号室に誰かが住んでいた記憶はない」と言う。写真を見せても、誰も反応しなかった。
気味が悪くなって、その日の夜は早めに寝た。
午前2時。廊下から物音がした。
コツ……コツ……と素足で歩くような音。壁が薄いので誰かが通るとすぐわかるのだが、その足音は、私の部屋の前で止まった。
そして……ノックが2回。
「……誰ですか」
返事はなかった。
ドア越しに人の気配がある。息づかいのような、湿った空気を感じる。
数分後、足音は消えていった。
翌朝、ドアの外を見ると、床にうっすらと濡れた足跡が残っていた。204号室のほうから来て、私の部屋の前で止まって、また戻っていく――そんな足跡。
管理人のAさんにそれを見せると、顔色が変わった。
「……昨日、あなた、あの部屋のことを話したよね」
「はい……204号室にいた男性のことです」
Aさんは小さくため息をついて言った。
「その人、亡くなってるの。ここで。……自殺だった。夜中、誰かに立って見られていたって怯えて、ある晩、自室で首を吊ったのよ」
「……じゃあ、やっぱり204号室には――」
Aさんは首を振った。
「その部屋に“いた”のが誰か、私にもわからない。でもね……」
そう言って、Aさんは最後にこう言った。
「ここに住む人は、みんな“誰か”を感じるの。あなたが感じたように、あの人も、私も。だから、立ち止まってはいけないのよ。気づかれてしまうから」
それから私はすぐに退去した。
最後の日、ふと204号室の前を通りかかったとき、閉じられたドアの下から、誰かの足が見えた。
じっとこちらを向いていた。
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