となりの住人

アパートで一人暮らしを始めて、3ヶ月が経った頃だった。
築年数は古いが、駅近で家賃も安く、最上階の角部屋ということで、静かに暮らせるのが気に入っていた。

ただ一つだけ、気になることがあった。
隣の部屋に住む人の姿を、一度も見たことがないのだ。

物音が全くしないわけではない。
夜中に水を流す音や、家具を動かすような小さな音が聞こえることはある。
でも、ゴミ出しや郵便物の受け取り、朝の出勤の気配すら感じられない。

管理会社に聞いても、「ちゃんと入居者いますよ」と言われるだけだった。

ある日、私が仕事から帰ってくると、玄関のポストに手紙のようなものが入っていた。

中を開けると、こう書かれていた。

「隣の者です。うるさくしていたらごめんなさい」

びっくりした。
こっちこそ迷惑をかけていないか心配だったくらいだ。

私は礼儀として、メモを返すことにした。

「いえいえ、こちらこそ。これからもよろしくお願いします。」

翌日、ポストにまた返事が入っていた。

「優しい方でよかった。安心しました」

それから、何度か短いメモのやり取りが続いた。
互いの顔は知らないままだったが、文字から伝わる人柄に、私は少し親近感を覚えるようになった。

ところが──ある日のメモを見て、背筋が凍った。

「夜、寝ているときに時々、あなたの声が聞こえます。とても落ち着きます」

私は、誰かと電話したり、独り言を言うような習慣はない。
寝ているときに声を出すような記憶もない。

気持ち悪くなり、しばらくメモのやり取りはやめることにした。

すると、今度はドアの前に、手作りのクッキーが置かれていた。

袋にはこう書かれていた。

「最近お話できなくて寂しいです。よかったら召し上がってください」

私は、ゾッとした。

いつ、私が部屋にいることを知っているのか。
そもそも、会ったこともない人が、ここまで距離を詰めてきている。

翌朝、意を決して管理会社に再び問い合わせた。

すると、担当者がこう答えた。

「え?隣の部屋ですか? 今空室ですよ?1ヶ月前に退去して、そのままです」

「でも、手紙のやり取りを……」

「それはあり得ません。鍵も返却されてますし、誰も住んでいませんよ」

震える手で電話を切り、すぐに警察に相談した。

警官が部屋を確認してくれたが、隣室には誰も住んでいなかった

だが、玄関の内側には、私からのメモをすべてきれいに保管した封筒が貼りつけてあった。

まるで──誰かが、ずっと見ていたかのように。

そして、壁際の床には、私の部屋側に耳を当てるためか、不自然にすり減った跡があったという。

それ以来、私はすぐに引っ越した。

あの部屋には二度と戻っていない。

でも、今でもときどき、自分のポストに手紙が入っていないか確認してしまう。

──誰かが、また「話しかけて」こようとしているんじゃないかと。

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