大学進学を機に、一人暮らしを始めた。新生活に胸を躍らせながらも、少し不安もあった。初めての街、古びたワンルームアパート。家賃は安く、駅からも近い。何より周囲が静かだった。
私の部屋は202号室。隣の201号室には中年の女性が住んでいると、大家さんから聞いた。「物静かで真面目な方ですよ」と言っていたので、特に気にしていなかった。実際、引っ越してから1ヶ月ほどは、まったく音が聞こえなかった。話し声も、テレビの音も、物音さえも。
ある日、大学から帰ると、部屋の前に大家さんがいた。「こんにちは」と挨拶すると、どこか困ったような笑顔で会釈された。「隣、大丈夫? 変な音とかしてない?」
「いえ、全然。むしろ静かすぎてちょっと不気味なくらいです」
冗談のつもりでそう言ったが、大家さんは笑わなかった。
その夜、妙な音が聞こえた。コツ、コツ、と壁越しに何かを叩くような音。時計を見ると深夜2時を回っていた。誰かが壁を叩いているのかと思ったが、不規則で、微かに鼻歌のような声も混じっているようだった。
翌朝、念のため大家さんに連絡してみた。「隣から音がするんですけど……」と伝えると、電話口の向こうで長い沈黙があった。
「……実はね、201号室、今は空き部屋なの」
「え?」
「2ヶ月前に退去しててね。まだ新しい入居者は決まってないのよ」
背筋が凍った。じゃあ、あの夜の音は? 鼻歌のような声は?
不安に駆られた私は、大学の先輩に事情を話し、夜に部屋まで付き添ってもらった。するとその晩、再び音が聞こえた。コツ、コツ、カリ……カリ……まるで何かを引っかいているような音。
「……これ、人間じゃない音だな」先輩が呟いた。
意を決して、翌日昼間に大家さんと一緒に201号室を確認することになった。カギを開けて扉を開けると、薄暗く埃っぽい空気が漂っていた。確かに、誰も住んでいないように見えた。
だが、部屋の奥にある押し入れのふすまに、何かが貼られていた。紙人形のようなもの。中央には赤い筆で「視ルナ」と書かれていた。
そして押し入れを開けた瞬間、鼻をつく腐臭が広がった。
中には何もなかった。ただ、畳の上にびっしりと指の跡のような黒ずみが残っていた。まるで中から爪でひっかいたような痕。
大家さんはそれを見て、青ざめながらふすまを閉じた。「……前の入居者、病んでてね。最後は突然姿を消したのよ。荷物も全部置いたままで……」
私がその部屋を引き払ったのは、その翌月だった。あれ以来、夜になると時々、耳の奥でコツ、コツ、と響く音が消えない。
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