深夜の引っ越し作業

そのアパートには、少し奇妙な噂があった。
 「深夜に引っ越し作業をする住人がいる」と──。

 私がその物件に住み始めたのは、転職を機に地方から上京してきた春。
 家賃が安いわりに駅からも近く、外観も綺麗で、いい物件だと思った。

 しかし、最初の週末の夜。
 時計が深夜2時を回った頃、隣の部屋から「ゴトゴト」と物を動かす音が聞こえてきた。
 タンスか家具でも動かしているのか、それとも掃除か?と最初は気にも留めなかった。

 しかし翌週も、その翌週も、必ず土曜の深夜2時頃に同じような音がした。
 しかも、物音だけでなく、微かに男性の低い声で「それ持って」や「そこ置いて」など、誰かに指示を出す声も聞こえる。
 一人暮らしのはずでは?と思い、少し気味が悪くなっていた。

 ある晩、好奇心に負けた私は、こっそり部屋の前に立ってみた。
 すると、カチャカチャとダンボールを開け閉めする音や、何かを引きずるような音が中から聞こえてきた。
 覗き見するようで後ろめたかったが、私は部屋のドアの郵便受けから、そっと中を覗いてみた。

 ……そこには、部屋の真ん中で無言で座っている若い女性がいた。
 口をテープで塞がれ、手足を縛られた状態で、何かに怯えながら震えていた。

 私はとっさに後ろに下がり、そのまま自室に駆け戻って警察へ通報した。

 通報から10分ほどで警察が到着し、隣室の住人はすぐに逮捕された。
 彼は、女性を数日前から監禁していたという。
 さらに調べが進むと、彼はこれまでにも何人かの女性を連れ込んでいた疑いがあるとわかった。

 私が聞いていた“引っ越し作業の音”とは、彼が女性を拘束して運んだり、家具を配置し直したりしていた音だった。
 そして、“指示する声”は、誰かと会話していたわけではなく、彼が一人で二役を演じていたのだという。

 警察によると、彼は精神的に不安定で、「誰かと一緒に住んでいるふりをしていた」とのことだった。

 私はあのとき、ほんの興味本位で覗いただけだったが、もし一日でも通報が遅れていたら──
 あの女性が、どうなっていたか分からない。

 引っ越し作業のような音に紛れて、人が傷つけられていた。
 そしてそれは、静かな住宅街の、ごく普通の一室で起きていた。

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