この話は、私が大学を卒業して初めて一人暮らしを始めたときのこと。
都内の小さなアパートで、駅から少し離れていたが、家賃も安く、それなりに気に入っていた。
ただ一つ、気になることがあった。
毎朝、ゴミ捨て場に“同じ男”がいるのだ。
その男は黒いジャージにマスク姿で、いつも6時ぴったりにゴミ捨て場の前に立っていた。
こちらがゴミを捨てると、黙ってじっと見てくる。
声をかけると軽く会釈はするが、それ以上の会話はない。
管理人に聞くと、「ああ、あの人ね。たぶん近所の人でしょう」とのことだった。
まあ実害はないし……と気にしないようにしていたが、ある日から様子がおかしくなった。
朝6時、外に出ると、男がゴミ捨て場からこちらの部屋を見上げている。
私がカーテンを開けた瞬間、すでに彼の目線がこちらを捉えていた。
「……気のせいかな」と思ったが、その日以降、男は毎朝、私の部屋をじっと見上げてくるようになった。
ある朝、ゴミを捨てに出ると、男がポツリと呟いた。
「いつも牛乳、飲み残してますよね」
驚いて立ち止まる。
「え、何ですか?」
男は首をかしげ、にやりと笑った。
「いえ、気にしないでください。朝は牛乳、身体にいいですから」
私はそのまま何も言えずに立ち去ったが、心臓がバクバクしていた。
その日、部屋に戻ると、冷蔵庫の中の牛乳がわずかに減っているように思えた。
でも、他には異常はなく、ドアチェーンも鍵も問題ない。
……ただの思い違いだと思おうとした。
だが、その夜──。
寝ていた私の枕元で、「ゴトリ」と何かが倒れる音がした。
電気をつけると、ベッドの横に置いたはずの目覚まし時計が床に落ちていた。
ベッドの足元には、小さな足跡のような汚れが残っていた。
パニックになって警察を呼んだが、侵入の形跡は見つからず、
「気のせいかもしれませんね」と言われてしまった。
それから数日後。
管理人から「不審者が敷地内で目撃された」とのお知らせが張り出された。
私はすぐに実家に戻ることを決意した。
引っ越しの前日、最後にゴミを出しに行くと、あの男がいつも通り立っていた。
ただ、その日は初めて彼が口を開いた。
「今日で引っ越しですか」
「……え? どうして知ってるんですか?」
男はにっこり笑った。
「昨夜、荷物まとめてましたよね。ちょっと、さびしくなります」
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
私は黙ってその場を離れ、翌朝の始発で実家に帰った。
それ以来、あのアパートには近づいていない。
でも時々、実家のポストに、牛乳のチラシが入っているのだ。
どこの業者のものでもない、手作りのチラシが──。
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