僕の地元には、今ではあまり見かけなくなった「電話ボックス」が、ひとつだけ残っている。
それは、町外れの川沿いの土手の近くにぽつんと建っていて、使われている様子もなく、手入れもされていない。
ガラスは少し曇っていて、内部は薄暗く、外から覗くと受話器がぶら下がっているのが見える。
子どもの頃、その電話ボックスのことを「幽霊電話」と呼ぶ者もいて、近づくだけで怖がる同級生もいた。
けれど僕は、ただの古い電話ボックスだと思っていた。
ある夜、友人と酒を飲んだ帰り、ふと思い立ってその電話ボックスの前を通ってみた。
川のせせらぎと虫の鳴き声が響く中、街灯のない土手に立つその姿は、思いのほか不気味だった。
ふと、受話器がわずかに揺れているのが見えた。
風のせいかとも思ったが、その瞬間──中から「ジリリリリリ……」と、ベルが鳴った。
心臓が跳ねた。
この時代に、あの電話ボックスが鳴るとは思わなかった。
怖いもの見たさも手伝って、扉を開けて中に入る。
中は蒸し暑く、かすかにカビのような臭いがした。
鳴り続ける受話器を取ると──スッと音が止んだ。
そして、しばらく無音のあと、かすかに女の声が聞こえた。
「……きこえますか……」
声は、ひどくかすれていた。
ノイズ混じりの音の中、何度も「……きこえますか……」と繰り返している。
冗談のつもりで「聞こえてますよ」と答えると、声がピタリと止まった。
しばらく沈黙が続いた後、今度はハッキリとした声で言った。
「……あのとき、どうして見捨てたの?」
思わず息を呑んだ。
記憶の奥底に沈んでいたある出来事が、急に蘇った。
高校2年の夏、僕は仲間たちと肝試しで、近くの廃旅館に行った。
そのとき一人の女子が足を滑らせて階段から落ち、気を失った。
誰かが通報して助けを呼ぶはずだったのに──皆、怖くなって逃げ出してしまった。
僕も、その一人だった。
幸い彼女は命に別状はなかったと後で聞いたが、それ以来、学校にも来なくなった。
連絡を取ることもなく、彼女の存在は、やがて皆の記憶から消えていった。
「……ごめんなさい……」
思わず、そう呟いた。
すると、電話の向こうで、笑うような声が聞こえた。
「もう遅いよ。ずっと、ここにいたのに」
その瞬間、電話ボックスのガラスに何かがバンッと叩きつけられた。
驚いて外を見ると、何もいない。
けれど、ガラスには白い手形がいくつも残っていた。
慌てて受話器を戻し、扉を開けて外に飛び出した。
全身が汗で濡れていたが、風が冷たく感じた。
帰り道、背後からかすかに「また、話してね」と囁かれた気がして、二度とその場所には近づかなかった。
翌朝、正気に戻ってもう一度確認しに行くと、電話ボックスには鍵がかけられていた。
受話器は壊れていて、コードも途中で切れていた。
鳴るはずも、話せるはずもなかったのだ。
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