その日は、仕事が押して帰宅が深夜になった。
同僚とのやりとりで気疲れしていた僕は、無言で電車に揺られながら、早く布団に倒れ込みたいと願っていた。
ようやく最寄駅に着き、閑静な住宅街を歩く。人通りもなく、街灯の下に自分の影が細長く伸びている。
マンションに着いたのは午前0時半。部屋は10階にある。
古びたエレベーターの前に立ち、ボタンを押す。
やがてガタンという鈍い音と共に扉が開いた。中には誰もいない。ほっと息を吐いて乗り込む。
10階のボタンを押して、背中の壁にもたれる。
動き出したエレベーターの中で、うつむいたまま目を閉じていた──その時だった。
ふと、誰かの視線を感じて顔を上げた。
鏡越しに、自分の背後に何かが映っていた。
──人影。
長い髪の、白っぽい服の女性のように見えた。
けれど乗った時、確かに自分しかいなかったはずだ。
背中が一気に冷たくなる。鏡をじっと見つめながら、動かずにいた。
すると次の瞬間、エレベーターがガクンと揺れた。
表示は「9階」。だが止まったまま動かない。
「……うそ……」
慌てて開ボタンを押すも、反応がない。
非常ボタンを押すが、通話中の表示が出て繋がらない。
そのとき、鏡の中の女が、ゆっくりと顔を上げた。
髪の隙間から覗く目が、まっすぐこちらを見ている。
振り返っても、実際の空間には誰もいない。
だが鏡の中には、確かにいる。
その女は、一歩、こちらに近づいた。
動悸が激しくなり、呼吸が浅くなる。
「気のせい、気のせい……」
そう念じながら目をそらした瞬間──。
背中に、冷たい手のひらの感触があった。
ぞわっと鳥肌が立ち、全身が固まる。
震える手でスマホを取り出し、ライトをつけて振り向く。
誰もいない。だが、鏡の中では女がこちらの肩に手を置いていた。
その瞬間、エレベーターがまた動き出した。
10階に到着し、扉が開く。
慌てて飛び出し、部屋のドアに鍵をかけて中に逃げ込んだ。
壁にもたれて、肩で息をしながら落ち着こうとする。
数分後、ようやく呼吸が整ってから、ふと玄関に目をやった。
白く濡れた足跡が、玄関から部屋の奥へと続いていた。
自分は靴を脱いで上がっている。
その足跡は、明らかに自分のものではない。
誰が──いつの間に──この部屋に入った?
急に心臓が跳ねる。全身の血が引いていく。
部屋中の電気をつけ、クローゼットや風呂場、トイレまで確認するが、誰もいない。
だが、足跡はある。
深夜3時。布団の中で眠れずにいると、何かの物音が聞こえた。
「カチ……カチ……」と、ドアノブをいじる音。
恐る恐る玄関を覗く。ドアの下の隙間から、濡れた白い何かが見えた。
そして──ドアの内側からノック音が響いた。
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