その日、私はいつもより少し早く会社を出た。
まだ陽がある時間帯に帰れるなんて久しぶりだった。
家までは電車で20分、駅からは徒歩15分の住宅街。
住宅街に入ったあたりで、小さな公園の前を通ったときのことだ。
「すみません……」
女の子の声がした。
小学校低学年くらいの少女が、公園のベンチに座っていた。
白いワンピースに、髪をツインテールに結んでいて、どこか昭和っぽい雰囲気だった。
「どうしたの? 迷子?」
「……ママと、はぐれちゃって」
泣きそうな顔だった。周囲に大人の姿はない。
私は迷った。下手に関わると変に思われる時代だし、通報されかねない。
けれど、その子の顔があまりにも不安そうだったので、交番まで一緒に行くことにした。
「おまわりさんのところに行けば、お母さんきっと見つかるからね」
手をつなごうとしたが、その子は拒否して、少し後ろをついてきた。
不思議と静かだった。小さな子どもは普通、もっと質問をしたり、泣いたりするものだと思っていたが、彼女はただ黙って歩いていた。
交番まであと200メートルというところで、背後から声をかけられた。
「ちょっと!何してるんですか!」
振り返ると、30代くらいの女性が険しい顔でこちらを睨んでいた。
「え、いや、ちょっとこの子が──」
「あんた……何言ってるの? 子どもなんてどこにもいないじゃない」
彼女の目には、あの子が見えていなかった。
私は混乱して後ろを振り返った。
誰もいなかった。
確かに、そこには“いた”のに。私のすぐ後ろに、白いワンピースの女の子が。
女性はさらに怒った口調で言った。
「……通報しますよ。あなた、何かおかしいです」
私は慌てて事情を説明しようとしたが、言葉がうまく出てこなかった。
警察に連れて行かれ、事情を聴かれたが、何もしていないのでその日は帰された。
……その夜。
自宅に帰り、部屋の電気をつけた瞬間、背後から子どもの声がした。
「助けてくれてありがとう」
……そこに、あの子がいた。
公園で見たままの姿。
けれど、顔が見えなかった。いや、顔が“無かった”。
そこにあるべき目や鼻や口が、ただの“のっぺらぼう”だった。
私は叫んで部屋を飛び出し、近くのコンビニまで走った。
その日から、奇妙なことが起こり始めた。
通勤中、すれ違う子どもが皆、私をじっと見ている。
誰かの視線を常に感じる。部屋の中でも、浴室でも、トイレでも。
ある日、会社のデスクに小さな折り紙が置かれていた。
開くと、こう書いてあった。
「ママに返して」
私の家族には子どもはいない。身に覚えもない。
なのに、毎晩のように金縛りに遭う。
そして夢に、あの子が出てくる。
「返して。ママに返して。返して。返して」
繰り返し、無表情の“のっぺらぼう”が口のない顔で訴えかけてくる。
精神的に限界を感じ、霊媒師に相談した。
彼は話を聞くなり、重く口を開いた。
「あなた……“連れて帰って”きてしまってますね。
あの子はあなたを、“ママを奪った人”と見ているんですよ」
どうすればいいか尋ねると、
「“返す”しかありません。戻ってきた場所に、あの子の痕跡を置いて、もう関わらないと強く念じることです」
私は慌てて、最初に出会った公園へ行き、小さな人形を供えた。
もう二度と来ないように、何度も心の中で祈った。
──それから、何事もなく日常は戻った。
……ただ、今も玄関のドアの前に、たまに水たまりの跡ができている。
晴れの日でも。
小さな、靴の跡のような形をして。
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