大学からの帰り道、夕方の公園で私は見知らぬ中年男性に声をかけられた。
「ちょっといいかな、お嬢さん。道を尋ねたいんだ」
その人は背広姿で、手にスマホを持っていた。40代くらいだろうか。
私は警戒しながらも、あからさまに無視するのも気が引けて、足を止めた。
「このあたりに○○医院ってあるはずなんだけど、地図アプリがうまく開けなくてね」
私は地図を確認しながら、「あ、あっちの通りをまっすぐ行って左です」と教えてあげた。
すると彼は、にこやかに言った。
「ありがとう、助かるよ。学生さん? 親切だね。最近の若い子には珍しい」
私は軽く会釈してその場を離れようとしたが、彼はなおも話しかけてきた。
「近くまで一緒に歩いてもらえないかな? 不安でね、方向音痴なんだ」
一瞬、迷った。でも距離も近いし、明るいうちなら……と思い、「少しだけなら」と答えた。
道中、彼は家庭の話や仕事の話をしてきた。聞く気もなかったが、私は適当に相槌を打っていた。
──だが、ある一言で空気が変わった。
「実はね……最近、娘がいなくなってさ」
え……?
私は言葉を失った。
「もうね、君くらいの歳で……君、ちょっと似てるんだよ」
足が止まりそうになる。
表情は笑っていたけど、目だけが笑っていなかった。
「君みたいな子が家にいたら、寂しくないんだろうなぁって……思うよ」
その瞬間、全身に寒気が走った。
「……すみません、急用思い出したのでここで失礼します!」
そう言って足早に方向転換した。彼はついてこなかった。
──それで終わればよかった。
家に帰り、ドアに鍵をかけてからも不安でたまらなかった。
カーテンの隙間から外を見ると、向かいの通りに人影が見えた。
あのおじさんだった。
こちらを見上げて、じっと動かず立っていた。
慌ててスマホで110番をかけようとしたが、気が動転していて指がうまく動かない。
ようやく警察に通報し、到着した頃には男の姿はなかった。
その日は親が帰ってくるまで震えながら過ごした。
──だが、数日後。
大学帰り、いつも通るスーパーの前でまた彼を見た。
私に気づいたらしく、にやっと笑って手を振ってきた。
私はすぐに逃げた。
警察に再度相談したが、「直接的な被害がないと動けない」と言われた。
その夜、SNSで身近な友人たちに注意喚起の投稿をした。
すると、別の女子大生からメッセージが届いた。
「同じ人かも。私も“娘に似てる”って言われたことある。実家にいた時からつきまとわれてた」
「私は一度、家の前で“娘を返せ”って泣きながらドア叩かれたよ」
彼女は実家を離れて引っ越したという。
怖くなって、私も引っ越すことにした。
引っ越し先は誰にも教えていない。鍵も二重にし、防犯カメラも設置した。
それ以来、彼の姿は見ていない。
──だが、昨日ポストに手紙が入っていた。
封筒も何もない、ただの便箋一枚。
そこには、たった一行。
「次は、家族ごと一緒に暮らそう」
警察には届けた。けれど、それ以上のことは何も分かっていない。
私は今でも、玄関のチェーンを確認しないと眠れない。
親切そうな顔をして、近づいてくる人が一番怖い。
だって、人の顔をしているだけで、“何者か”は簡単にすり寄ってくるから。
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