私が大学2年の頃、祖母が亡くなった。
法要のため、実家に帰省した私は、祖母が生前暮らしていた部屋に泊まることになった。
その部屋は、昔から少しだけ苦手だった。特に、壁に掛けられた大きな鏡が怖くて、子どもの頃は目を合わせられなかった。
けれど大人になった今、その程度のことは気にしていなかった。
──その夜までは。
祖母の仏壇に線香をあげ、風呂に入って部屋に戻ると、鏡に何か映っているのが見えた。
最初は自分の姿だと思った。でも、どこか違う。
鏡の中の“私”は、少しうつむいていた。顔がはっきりと見えない。
こちらは立っているのに、鏡の中のそれは微動だにせず、まるで止まった映像のようだった。
違和感を覚えて近づくと、突然「コン」と鏡の向こうから音がした。
まるで、鏡の中から誰かがノックしてきたようだった。
私はそのまま鏡を覆うように、タオルを掛けて寝ることにした。
その晩、夢を見た。
薄暗い部屋の中、誰かが私を見下ろしていた。
その人は祖母に似ていたけれど、どこかおかしかった。
目が、黒目だけで構成されているような、異様な印象だった。
「……戻ってきてはいけない」
そう言って、その人は私の肩を掴んだ。
「ここにいるのは、私じゃないよ」
そう言ったとき、私は目を覚ました。
汗びっしょりだった。寝苦しさの原因は、部屋の空気が重く、異様に湿っていたせいかもしれない。
……タオルが、床に落ちていた。
鏡はむき出しのままだった。
鏡をチラッと見ると、“私”が笑っていた。
私は笑っていない。
それなのに、鏡の中の“私”は口元をニヤリと歪めていた。
私は叫んだ。
部屋のドアを開け、階下に降りて両親のもとへ駆け込んだ。
話を聞いた母は青ざめた顔で言った。
「……やっぱり。あの鏡、もう捨てよう。おばあちゃんも、昔“あれだけは捨てないで”って言ってたけど……あなたの身に何かあったら困る」
翌朝、業者を呼んで鏡を処分することになった。
業者が鏡を持ち上げたとき、裏にお札が何枚も貼られているのが見えた。
それも、全部ボロボロになっていて、剥がれかけていた。
処分中、ひとりの作業員がこう漏らした。
「……この鏡、なんか“向こう側”に誰かいる気がする。ずっと見られてるみたいな」
作業員が去ったあと、私はこっそり鏡のあった場所を覗いた。
すると、そこに小さな紙が一枚だけ残っていた。
裏には、祖母の字でこう書かれていた。
「“あの子”はもう出られない。けれど、鏡が壊れたら──境が消える。」
祖母は、何かを閉じ込めていたのだろうか。
それとも、鏡の中に本当に“誰か”がいたのか。
あの夜以来、私は鏡に自分が映っていても、少しだけ“距離”を置くようになった。
なぜなら、あれ以来──
鏡の中の“私”と、目が合わないことが何度もあるからだ。
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