一人暮らしを始めて半年ほどが経った頃の話だ。
都内の築浅マンションで、セキュリティもオートロックもしっかりしていて、特に不満もなく暮らしていた。
ただ、少しだけ気になることがあった。
夜になると、上の階から足音が聞こえるのだ。
ドタドタと歩く音、時には家具を引きずるような音もする。
最初は「子どもでもいるのかな」と思っていた。
だが、週末の夜中2時や3時にも音がすることがあり、だんだんと不快に感じるようになった。
ある朝、ちょうどマンションのエントランスで、同じ階の住人とすれ違ったときに、何気なく聞いてみた。
「上の階の人、ちょっとうるさくないですか?」
すると、その人は少し首をかしげてこう言った。
「え?上って……空室じゃない?」
「え?」
「たしか、今は入ってないはずですよ。ずっと“内覧中”って張り紙あるし」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
確かに、郵便ポストも空だった。
窓のカーテンも閉まったまま、洗濯物が干されているのを見たこともない。
それでも、夜中に足音は確かにする。
私は意を決して、不動産会社に確認してみた。
返ってきた答えはこうだった。
「はい、○○号室は今も募集中ですね。まだ入居者はいません」
ならば、私が聞いていた音は……?
それでもどこかで自分を納得させようとしていた。
「もしかして、隣の棟の音が響いてるだけなのかも」と。
だが、それでは説明のつかないことが起こった。
ある夜、寝ようとしていた時、天井から「コン……コン……」と何かで叩くような音がした。
しばらくすると、スマホの通知音が鳴った。
画面を見ると、「AirDrop」で写真が送られてきた。
差出人は「上の住人」と名乗る端末。
内容は、私の部屋の天井を真上から撮ったような写真だった。
私は凍りついた。
──この写真、どうやって撮った?
“真上”からじゃないと撮れない位置だ。
そして何より、私の姿がベッドに写っている。
慌てて警察に通報した。
警官が駆けつけてくれたが、マンション内に不審者は見当たらなかった。
上の階の部屋も鍵はかかっていて、部屋の中は空っぽだった。
ただ、部屋の中央に、畳一枚分だけ黒く擦れた床があった。
まるで、誰かがずっとそこに座っていたかのような跡だった。
警察も首をひねり、「不法侵入の形跡はなし」と言うばかりだった。
後日、不動産会社に再度問い合わせたところ、こんなことを教えてくれた。
「あの部屋、以前は女性が住んでいたんですが……少し精神的に不安定な方でして。
上の階の住人に監視されてるって、毎日のように言ってたんですよ」
「……その上の階は空室なんですよね?」
「そうなんです。でも、最後には“天井に穴を開けられた”って騒いで……それで退去されたんですよね」
今思えば、彼女が言っていた「上の階の住人」は──
**本当に“誰か”だったのかもしれない。
それとも、“誰もいない”ということこそが、最も恐ろしいことだったのか。**
私はすぐに引っ越した。
今の部屋では、足音は聞こえない。
けれど、時々、天井を見上げてしまう。
この上に──誰かが座っているんじゃないか、と思って。
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