そのアパートは、地元でも“訳あり物件”として知られていた。
家賃は相場の半額以下。築年数は古いが、駅にも近く間取りも悪くない。
俺は引っ越しを急いでいたし、他に空き物件もなかったから、不安を飲み込み契約することにした。
「この部屋だけ、ずっと空いてたんですよ。不思議ですね」
不動産屋の男は、書類を渡しながら苦笑いをした。
鍵を受け取り、302号室のドアを開けた瞬間、異様な空気が鼻を突いた。
ホコリと、何かが腐ったような生臭い臭い。
誰かが長い間住んでいたような、でも確かに「空き部屋だった」はずの気配。
カーテンは外されておらず、押入れには古い布団が一組残っていた。
掃除が不十分だったのだろうと思い、不動産屋に連絡すると「すぐに業者を入れる」と言われた。
その夜は最低限の荷物だけで過ごした。
夜10時頃、風呂から上がってリビングに戻ると、部屋の照明が微かにチラついた。
(あれ、電気系統がおかしいか?)
そう思いながらソファに座ると、天井からポタ…ポタ…と音がした。
見上げても水滴らしきものはない。気のせいだと思って布団に入った。
真夜中、夢を見た。
俺は知らない部屋の中で、押入れの襖を開けていた。
そこには、ぐったりとうつ伏せになった中年の男が横たわっていて、俺に向かって何かをつぶやいた。
「ここは…まだ…出られない…」
目を覚ますと、汗びっしょりだった。
次の日、部屋の片づけをしていると、クローゼットの奥に小さな木箱を見つけた。
鍵がかかっていたが、側面が割れており中身を覗くことができた。
そこには、写真が数枚――
どれもこの302号室の中で撮られたものだった。
だが、おかしいのはその写真に写っている人物。
全部、違う時期、違う家具、違う人物が写っているのに、
その全員が、同じポーズで、同じ表情で、同じ場所に立っていたのだ。
まるで、「この部屋に取り込まれた誰か」が次々にその場所に立たされているかのように。
慌てて不動産屋に再び電話した。
「302号室?…ああ、前にお伝えしましたっけ?」
「実はそこ、過去に3人、室内で亡くなってるんです。でも事故物件の告知義務って最初の1件だけなんで…」
電話を切った後、強烈な吐き気に襲われた。
カーテンが、風もないのに揺れていた。
押入れの襖が、音もなくわずかに開いていた。
その夜も夢を見た。
俺は部屋の中で、写真に写っていた人物たちと同じポーズを取らされていた。
背後では、誰かがカメラのシャッターを切る音がする。
――パシャ。
次に目が覚めたとき、身体が全く動かなかった。
天井の隅には、黒い影がこちらを見下ろしていた。
数日後、俺は荷物も取らずに302号室を出た。
その物件は今も「空き部屋」として掲載されている。
最後の一部屋として。
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