会社の異動で、少し田舎の町に引っ越した。
とはいえ、自然が多く、家賃も安くて広い。職場からも近く、環境としては申し分なかった。
引っ越し初日の夜、インターホンが鳴いた。出ると、見知らぬ女性が立っていた。年の頃は40代後半、地味な服装で、どこか影の薄い印象だった。
「こんばんは。隣に住んでる者です。引っ越し祝いにと思って……」
そう言って、小さな包みを差し出した。中には手作りのクッキーが入っていた。
僕は礼を言い、その場は丁寧に受け取った。田舎ではこういう交流もまだ残っているのかと、少しほっこりした気持ちになった。
しかし翌朝、出勤のために玄関を出たとき、妙なことに気づいた。ポストに、白い紙が貼られていたのだ。
『食べるな』
たった一言。それだけ。
気味が悪くなり、昨晩のクッキーは食べずに捨てた。
その日からだ。
毎晩のように、あの女性が訪ねてくるようになった。必ず20時ちょうどに、クッキーや煮物を手にして。
「お口に合えばいいのですが……」
そう言って渡してくる。毎回笑顔だが、どこか目が笑っていない。
3日目、怖くなって居留守を使った。するとポストにまた白い紙が入っていた。
『無視するな』
次の日、引っ越し祝いを断った。だが彼女は微笑みを崩さず、包みを無理やり僕の手に握らせて去っていった。
その夜、眠れなかった。音がした気がして目を覚ますと、玄関のドアに何かが貼られていた。
『お前の部屋は、私の部屋だった』
驚いて警察を呼んだが、女性の姿はどこにもなかった。管理会社にも連絡したが、「隣には誰も住んでいない」とのことだった。
あの部屋は、数年前に女性が孤独死してから、ずっと空室だという。
けれど、今日もインターホンが鳴く。
20時ぴったりに。
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