大学1年の春、俺は学生寮ではなく、少し離れた安アパートを借りて一人暮らしを始めた。
築40年近いボロアパートで、家賃は格安だったが、防音性はほぼ皆無だった。
隣室の目覚ましが聞こえるほどで、最初はうるさく感じていたものの、だんだんと慣れていった。
だが、引っ越してしばらくすると、気になることが起き始めた。
夜になると、隣の部屋から、かすれた声で何かを話すような音が聞こえてくる。
最初はテレビかと思っていたが、妙に小さな声で、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返しているようだった。
ある日、思い切って管理人に聞いてみた。
「あの、隣の部屋の人ってどんな方ですか?」
すると、管理人はこう答えた。
「ああ、あそこね。空き部屋だよ。しばらく入ってない」
……じゃあ、毎晩聞こえるあの声は?
気味が悪くなり、しばらく耳栓をして過ごすようにした。
だが、ある夜、トイレに起きたとき、耳栓をつけていない状態でふと壁に耳を当ててみた。
すると、「……見てる、見てる、見てる……」と、はっきりと聞こえた。
ゾッとして、そのまま布団にもぐりこんだ。
翌日、再度管理人に確認したが、やはり「誰も入っていない」という。
数日後の深夜、突然インターホンが鳴った。
覗き穴から外を見ると、誰もいない。
ただ、玄関前の床に、アパートのマスターキーが落ちていた。
怖くなって中から鍵をかけ直し、翌朝すぐに管理人室へ持って行った。
すると管理人は眉をひそめ、「なんでそれがあんたの前に落ちてたんだ?」と。
その夜、とうとう我慢できずに、隣室を確認する決意をした。
昼間、管理人が鍵を開けてくれて、一緒に中を覗いた。
そこには家具も何もなく、ただ一つ、壁に向かって設置されたパイプ椅子だけが置かれていた。
その椅子の背もたれには、大量の引っかき傷。
壁には黒いマジックで、「見てる」「見てる」と、何度も書かれていた。
「……前に住んでたやつ、ちょっと精神的におかしくなっててな。
入院してそのまま。誰も入れないように鍵は変えたんだけどな……」
そう言って、管理人は扉をそっと閉めた。
でも俺は知っている。
毎晩、その部屋から、今も声が聞こえることを。
あの椅子に、誰かがまだ座っている音がすることを──。
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