大学進学で一人暮らしを始めた頃、築年数の古いアパートに住んでいた。
安い代わりに、隣との壁は薄くて、生活音はよく聞こえた。
隣の部屋には、俺と同年代くらいの男が住んでいたらしい。
でも……まったく物音がしなかった。
洗濯機の音も、話し声も、ドアの開閉も聞いたことがない。
いるのか?と思っていたら、ある日すれ違った。
白いTシャツに黒いジャージ、うつむいたまま無言で通り過ぎた男。
挨拶しても、無言のまま。
ちょっと不気味だったけど、関わらなければいい。そう思っていた。
ある日、夜中にうとうとしていたら、壁の向こうから音がした。
カタ……カタ……という小さな音。
何かが棚から落ちるような、乾いた音。
そして、ピタッと止まる。
しばらくして、またカタ……カタ……
眠れなくなって、布団の中でじっと耳を澄ませていた。
次の日、気になって大家にそれとなく聞いてみた。
「あの、隣の人って……普段、在宅なんですか?」
すると大家が眉をひそめた。
「ああ、あの人ね。……まぁ静かでいい人だけど、何考えてるか分からないのよ」
何考えてるか分からない──
その言葉が、頭に引っかかった。
翌週、友人を部屋に招いて飲んでいたら、ポツリと聞かれた。
「隣の部屋、物音しないな。空き部屋か?」
「いや、人住んでる。でも妙に静かでさ……夜になると変な音がするんだよ」
「ふーん……壁に耳当てて聞いてみるか」
そう言って、友人は冗談半分に壁に近づいた。
次の瞬間、急に顔を引きつらせて、こちらを見た。
「……息、してた。すげぇ小さく……すぐそこにいる」
怖くなって、それからしばらく夜はテレビをつけて眠るようになった。
ある雨の日、アパートの前で救急車が止まっていた。
野次馬の一人に聞いた。
「上の階のやつ、しばらく姿見なかったんだけど、部屋で倒れてたんだって」
何か違和感を覚えて、慌てて大家に確認した。
「うちの階じゃないですよね? 隣の人、大丈夫ですか?」
大家は首をかしげて言った。
「……あら、隣? あそこ、ずっと空き部屋だけど?」
……いや、俺は見たんだ。
白いTシャツの男、すれ違った。
壁の向こうから物音がした。
息遣いも聞こえた。友人も聞いた。
引っ越しの準備を始めた数日後、玄関のポストに小さな封筒が入っていた。
差出人も宛名もない、無地の封筒。
中に入っていたのは──白いTシャツの切れ端だった。
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