社会人になってから住み始めたアパートは、築年数は古いが駅からも近く、家賃も安かった。
間取りは1K。隣の部屋との壁は薄く、くしゃみや咳払いが聞こえるほどだ。
入居して3日目の夜だった。
夕飯を終え、テレビを見ていると、壁の向こうからコツ、コツ、とリズムを刻むような音が聞こえた。
最初は気にも留めなかったが、その音は毎晩ほぼ同じ時間に始まり、30分ほど続く。
どこかの作業音かと思いながらも、しばらくして気づいた。
音が鳴るのは、俺が部屋の電気を消してベッドに入るときだけだ。
壁の向こうには、同じく一人暮らしらしき男が住んでいる。
入居時に挨拶をしようとチャイムを鳴らしたが、反応はなかった。
ある日、タイミングが合ってその隣人とエントランスで顔を合わせた。
30代くらいの男性。細身で、どこか伏し目がちだった。
「隣の者です。よろしくお願いします」と声をかけると、
一瞬こちらを見たが、何も言わずに軽く頭を下げて通り過ぎた。
それ以降も、コツコツ音は続いた。
ある晩、好奇心から壁に耳を当ててみた。
すると、壁の向こうから小さく、こう聞こえた。
「起きてるんでしょ」
息が詰まった。
テレビをつけ、音を立てると音は止まった。
翌日、管理会社に相談したが、「特に苦情もなく、トラブルもない」とのことだった。
数日後、帰宅するとポストに紙が入っていた。
便せんに手書きの文字で、こう書かれていた。
「深夜に物音がすると眠れません。静かにしてください。」
だが、俺はその夜は0時前に寝ており、テレビもつけていない。
むしろ“音を立てられている”のはこっちの方だ。
壁越しにイライラを感じながら、ある晩、思いきって壁に向かって言ってみた。
「うるさいのはそっちでしょ!」
しばらく沈黙。
だが、返ってきたのは、壁の向こうからの笑い声だった。低く、くぐもったような声。
管理会社に再度連絡すると、「調べます」との返事があった。
翌週、管理会社から電話があった。
「○○号室に関してですが……申し訳ありません、住人はもう退去されています」
「え?」
「ちょうど1か月ほど前に契約終了してまして、今は空室です。何かありましたか?」
では、あの壁の音や、便せんの手紙は? すれ違った男は誰だったのか?
すぐに部屋を引き払ったが、あの笑い声は今でも耳に焼き付いている。
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